第25章 どうしたら彼を抑えつけてる箍が外れるんだろう。

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ただ実在の彼女の本物を見てみたい、ってだけのことなのかもしれないし。それだって今日、彼を玄関まで出迎える茜さんを目に出来なければそれで終わってしまうだけのことなのかも。 戸口まで出てきて彼を迎え入れるのが彼女じゃなくて彼女の旦那さんだって可能性もある。まあそれはそれで。ちょっと興味なくはないか。…雅文くんが結局敵わなかった恋仇。一体どんな男の人なんだろう。すごいイケメンとか、それとも超絶優しそうな人?  とにかくわたしが出会う前の彼を深く揺り動かしたカップルに対して何でもいいから知りたい、って衝動を抑えきれない。彼らに何か原因があるとは言い切れないけど。 わたしが彼から結婚したいって望まれない理由が。その人たちを知ることによって何か一つくらい明らかになるんじゃないか、っていっそ縋るような思いだった。 彼の部屋から彼らの新居はあまり交通の便がよくはなくて、何だかんだで小一時間はかかると雅文くんが言っていたのは本当のことだった。 前の晩からいつものように夜は彼の部屋に泊まって。朝になったら一旦わたしは自分の部屋に帰る。出勤前の身支度をしたり、部屋を片付けたりするため。それから改めて職場へ向かい、終業後にはまっすぐ再び彼の部屋に戻る、って予定になってた。 とにかく、少なくとも表向きは。だから彼が茜さんちに向けて出発するよりひと足先にわたしが家を出ることになる。別に全然不自然じゃないよね、と脳内で確認しつつ玄関へと向かう。今までだって朝、一度自分の部屋に立ち寄ってから出勤する、ってことはよくあったし。 雅文くんはわたしの後からついてきてわざわざ出るのを見送ってくれた。じゃあ、と改めて振り返るわたしに正面から向き合うと、そっと両肩に手を乗せて引き寄せた。 キスを交わす間のしばしの沈黙。それからおもむろに唇を離すと、彼はぽふんとわたしを胸の中に収めて頭の天辺に軽く顎を乗せ、しみじみと呟いた。 「…今日、もちろんなるべく早く帰ってくるつもりだけど。もしかして遅くなっても、この部屋が真っ暗じゃなくてお前が中で待ってたらと思うと。…それもなんか、いいな。想像するだけで」 「そしたらこっちこそ。遅くならないように気をつけなくちゃ」 胸に顔を押し付けられてごもごもとくぐもった声が出た。彼は笑ってわたしの髪をくしゃくしゃと撫でる。 「そんなのお前は気にしなくていいよ。仕事が大事だろ。それに、どっちだっていいんだ、俺が先でも歌音が先でも。…結局は二人とも同じ家に帰ってくる、ってのが意味があるんだから。待つ方でも待たれる方でもいい。今夜会えるってことさえわかってれば」 「…うん。そうだね」 わたしは彼の胸に顔を埋めつつじん、となった。 だけど一方でほんの少し複雑な気分。そんな風にわたしのことを思ってくれてるのなら。どうして結婚して子どもを産んでほしい、とは考えてくれないんだろ。 毎日同じ家に帰りたいって気持ちが本当にあるなら。それが一番順当な考え方だと思うんだけど。 それとも。そんなの今だけ、ってことに何か確信でもあるのかな。そのうちお互いに飽きてしまってこんな熱量は持続しないに決まってる。あえて結婚するほど永続的な感情じゃない。少なくとも彼自身の方は、って。 でもどうしてか彼女との時はそうとは考えなかったんだ。小さな男の子の世話に心を奪われてカメラを向けられたことにも気づいてない、無防備な整った横顔が脳裏に浮かぶ。将来気持ちが醒めるかもわからない、なんて迷う余地もなく。どんな手を使ってでもあの人を未来永劫自分のものにしようとした。 彼女とわたしとでは。一体何がそんなに違うんだろう? やっぱ顔と見た目と、身体か。思ってたよりも長い時間彼は家から出て来なかった。ぼんやりただ待ってる間できることもないので、つい益体もないことばかり考えてしまう。わたしは道の反対側の物陰からマンションの出入り口に目を配り続けつつ憂鬱なため息をついた。 そりゃあ、あのひととわたしなら。較べちゃえば容姿のレベルとか大人っぽさに圧倒的な差があるし。その上子どもをきちんと育てられるくらい人間性もしっかりしてて。仕事も今でも家庭と両立して続けてるんだから、実務的な能力も高そう。 わたしの取り柄なんて考えてみればせいぜい身体くらいだけど、それだってただ彼とするのが頭おかしくなるくらい好きなだけで。特に他人より上手とか、一般的にいってセクシーとか魅力的ってわけでは…。 彼女だったら自分だけよければすぐに夢中になって溺れちゃうわたしとは違って。もっと彼を悦ばせる大人のテクニックとかだって、きっといろいろ持ってたんじゃないかな。そしたらただエッチ好きなだけのわたしなんて、そっち方面でも敵いっこないか。 …あ。 「…出て来た」 ごく小さな呟きが思わず出てきて、口の中でそのまま消える。ぼんやりしてた自分をしゃきっとさせて集中力を高めるために、軽く頭を振って胸の内で言い聞かせた。 彼に見つかったら元も子もない。遠くから目を離さずに。さり気なく自然な態度で、尾行しないと。 幸い土曜の午前中の街は、がらがらでも混雑してもいない。ほどほどの人出の中で、わたしは彼を見失うこともなく何とか電車を乗り継いで彼女たちの住む土地の駅まであとを尾けることに成功した。
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