第一章/第二節 金の世界

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第一章/第二節 金の世界

 十九世紀。産業革命のまっただ中。  濫立する工場が海と空を汚している。その様を、波止場からぼんやりと見つめていた。  かつて観光で賑わいを見せたこの港街も、革命の波に飲み込まれ、その姿を大きく変えているようだった。 「アリオ=フリーモント様ですね。ようこそ本船にいらっしゃいました」 「ああ」 「こちら、切符をお返しします。お荷物は……二つでよろしいですか?」 「そうだ。両方とも自室に持ち込みたい」 「承知しました。では、船内へどうぞ。お荷物お持ちしますよ」 「いや、必要ない。案内を頼む」  通された一人部屋に荷物を置いたところで、ようやく人心地ついた。  この旅行鞄、一つは旅の荷物が入っているだけだが、もう一つには金が入っていた。それも、普通の労働者が一生かけても稼げないぐらいの大金が……。それだけ扱いには慎重になっていた。  自室の鍵をかけて、ベッドに倒れ込む。  精神的な疲れと肉体的な疲れが重なって、すぐにでも寝れるようだった……。  トン、トン、トン  ノックの音に目が覚めた。部屋が薄暗くなっている。 「フリーモント様。夕食のご用意ができております。ご都合よろしければ、食堂へおいでください」 「分かった。今行く」 「お待ちしております」  食堂に向かうと、白いテーブルクロスをかけた数組の丸テーブルが見えた。席はところどころ空いている。 「やあ」 「ああ」  どこに座るか考えていると、優男に声をかけられた。二十代半ばの俺より、少しだけ年上に見える。 「好きなところに座っていいそうだよ。よければ隣にどうぞ」 「なら失礼して」 「ここの会場、乗客みんなが座るには席が足りないようだね」 「まあ、普通のヤツなら、夕食付きのサービス料なんて払えはしない。部屋だって一人に一つってことでもないだろうしな」  世の中、金を稼いだ者勝ちだ。 「君は普通のヤツじゃないって訳だ。君、名前は?」 「アリオ。アリオ=フリーモント」 「ああ、君がうわさの……。一から新聞事業を起こした気鋭の事業家。いや若いね」 「あんたも十分若く見える」 「ありがとう。僕はね、鉄鋼業を扱っているんだ」  名刺を受け取った。相当な上役らしい。 「今後ともよろしく」 「ああ」  このようなつながりが、いつかビジネスに結びつくかも知れない。向こうもそう思って声をかけてきたのだろう。それなら、こちらも大歓迎だった。金はいくらあっても困ることはない。本当に……。  やがて食前酒が注がれ、前菜が運ばれてきた。 「今日は一人旅かい?」 「まあな。少し羽を休めようと思って」 「いいね、息抜きは重要だよ」 「あんたは?」 「残念ながら、僕は仕事さ。商談があってね」 「にしては秘書の姿が見えないな」 「ずっと監視されているような気がして、落ち着かなくてね。逃げてきちゃったよ」 「その秘書に同情するよ」 「はははっ、違いない」 「……っ!」  突然、船が大きく揺れた。落下した食器が、甲高い金属音を響かせた。 「おいおい、大丈夫か?」  出港前は凪いでいたように見えたが……。 「大丈夫だよ。危ない海域を通る訳じゃないしね」 「皆様、悪天候のため少々揺れておりますが、運行上、問題はありません。どうかご安心ください。ただ今より、メインディッシュをお持ちいたします。当船の一流シェフによる一品を是非お楽しみください」 「ほらね。こう言っていることだし」 「ああ……」  肉料理の皿が下げられ、デザートが配膳された。その段になって、窓に叩きつけられる風雨がいよいようるさく感じられた。先ほどではないにしろ、揺れの頻度も多い。  席を立った。 「あれ、どうしたんだい?」 「甘いものは苦手なんだ。今日はもう戻る。またな」 「そう、分かった。良い夢を」  食堂の扉を開ける――そのとき、向こうから扉が開いた。 「み、皆様……! 船体の一部が浸水しておりまして……安全のため、上階へ避難をお願いいたします……!」  ざわめき、ヒステリックな声、怒号――。  パニックに陥る食堂を後に、自室へ急いだ。 「お、お客様、これより先は危険です。お戻りください!」 「悪い、荷物があるんだ」  押し留める船員を押しのけて、部屋が立ち並ぶ区画に早足で向かった。  あの大金……どうあっても、失う訳にはいかない――。  自室の前までやって来た。  扉を開ける。  そこは――部屋を出たときと、そっくりそのままの状態を保っていた。  思わず、安堵の息を吐いた。  ギギィ……  な……船が急に傾いて、立っていられない……!  部屋の調度品が、旅行鞄が、窓の方に滑り落ちていく……。そのまま窓を突き破って、風の唸る真っ暗闇の中に吸い込まれていった。  これだけは絶対に……!  すんでのところで、金の詰まった鞄を掴んだ。  安堵と達成感に満たされる。  そのとき、自分の身体が重力に捉えられていることに気づいた。  激しい水音が聞こえた。  落ちた? 俺が? こんな荒れ狂う夜の海に? これは現実か? 夢じゃないのか?  冷たい……暗い……苦しい……。  俺は……こんなところで、死ぬ、訳には……。
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