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第一章/第四節 桜の下で
何が悪かったか……と言えば、ボロい船が悪かったんだ。俺は悪くない。
意味もない言い訳を繰り返しているうちに、ようやく大樹の全貌が見えてきた。
でかい……。青空に突き抜けるようだ……。
桜色の絨毯を踏みしめながら、根元にたどり着いた。
陽光を遮る影が心地いい……。
「休憩するか……」
巨木を背もたれに座り込み、目を閉じた。
これから自分が一体どうなってしまうのか?
あの計画を達成することができるのか?
そういった疑問が絶えず浮かんでくる……。
名前の知らない鳥のさえずり、風が枝を揺らす音……。一方で、そういったものが気持ちを穏やかにさせていた。
そして、かすかなパンの香り……。
「はい」
目を開けると、鼻先にパンの入った紙袋が突き付けられていた。
「どうしたの? 食べないの?」
青い瞳の女と目が合う。金色の髪を結っていた。歳は俺と同じか、少し下に見えた。
「ああ……もらって、いいのか?」
「うん」
「……」
「……」
「なあ、あんた」
「?」
「どこかで俺と会ったことないか?」
「……」
「……」
「えと、会っていきなり女の人を口説くとか、ドン引きなんですけど」
「あぁ……悪い、どうかしてた。忘れてくれ」
空腹やら疲労やらで頭が朦朧としているのだろう……。
「そんなことより、君。話題になってるよ。合う人に銀やら金やらを押し付けようとする、ずぶ濡れのヘンタイさん」
「俺は変態じゃない」
「などと容疑者は供述しており」
「おい」
「君が今食べているパン。おじさんに持っていって欲しいって頼まれたの」
「……」
あのとき呼び止められたような気がしたが、このことだったのだろうか?
「これは……タダなのか? 何か見返りが必要なんじゃないのか?」
「見返り……。しいていうなら、君が感謝の気持ちを示すこと、かな」
「どういうことだ?」
「君がどんなところで生活していたかは知らないけれど……ここでは、ガトーというものを生活の基礎に置いているの」
「ガトー?」
「ガトーを多く持っている人ほど、美味しい料理を食べられるし、広い家に住める。立派な服だって着れる」
なんだ、金みたいなものか。
「なるほど。そのガトーとやらとモノを交換するんだな?」
「ううん。ガトーは交換するものじゃないの。それに、減るっていうことはないよ。悪いことをしない限りはね」
「おいおい。それだと、ガトーをたくさんもってるヤツが、欲しいモノを全部独り占めするんじゃないのか?」
「そこは上手くできていてね。なんていうかな……ガトーは優先権みたいなものなの。それを多く持っている人から、順番に欲しいモノが手に入るっていう感じかな」
ふむ……。たとえガトーとやらを大量に持っていても、無茶苦茶なことはできないっていうことか?
「話はなんとなく分かった。で? そのガトーはどうすればもらえるんだ?」
この答え。これが、金と一線を画す決定的な違いだった。
「人に感謝されること。それに尽きるよ」
「人に感謝されること?」
「気づいてる? 君がつけているその腕輪。ここにいる人、みんなつけてるって。もちろんわたしも。そこに数字が書いてあるの」
「数字……これは数字か。ゼロ、に見えるな」
「その数字がガトーなの。人から感謝されると、その数字が少しずつ増えていくという仕組みね。つまり、今の君は、人を喜ばせることのできないクズ野郎を証明してるってことね」
街の人から向けられていた視線が分かった気がする……。
「それで、感謝って一言で言っても、いろいろあるでしょ? 落とし物を拾ってもらったっていう小さなものから、命を救ってもらったっていう大きなものまで。その感謝の度合いに応じて、ガトーは溜まっていくの」
「なるほど……」
「だから、君が、そのパンを食べて思った気持ち。こんなに美味しいパンを食べさせてくれてありがとうって強く思えば、きっと、それはガトーになっておじさんに届くと思うよ。そしたら、おじさんはもっとやる気になって、もっと美味しいパンを作ってくれるようになる」
俺の居た場所……。そこでは、金を稼ぐことが何よりも優先された。それが人を幸にするか不幸にするかは関係なく……。この街は、それとは違う仕組みで動いてるということなのだろうか? どんな技術が使われているのかは、さっぱり分からないが……。
「なかなか興味深い話だ。だけど、俺にはやることがある。ここから出て行く俺には、縁のない話だ」
「出るって、この街から出るってこと?」
「もちろん。……何か問題があるのか?」
「うーん、と……。実際に見てもらった方がいいかな。上に行ってみようよ」
そう言って、女が手を差し出した。
「ああ」
ビジネスの握手以外で人と手をつないだのは、いつ以来だったか……。そんなことを、ぼんやり思った。
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