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______精霊王とは精霊を統べる存在であり、この世界の繁栄を見守り危機が起これば救いの手を差し伸べるものである。
姿は人族のものに限りなく近く、その力は強大で、如何なる国も権力もそれを掌握する術は持たない。
精霊の類は人を見守ることはあれども、干渉は行わない。
ただ極稀に精霊に見初められたと思わる者が忽然と姿を消す。その詳細は____。
その存在を冒涜することは犯してはならない禁忌であり、何人たりとも、その存在を穢すことは許されない。_____
王国所蔵『大陸史記全書』第11章より一部抜粋
魔の森と言われ人々に畏れられる地域。豊かな自然を領有する森が畏れられるのは危険だからという理由ではなく、かの森には精霊王が顕在するとされていたことにあった。
後に伝承の地と呼ばれるその森に顕在する一柱の精霊王は近づきがたいまでの美しさ、まるで全てを見通しているのではないかとも思える聡明さ、精霊の王とされるだけの力を持ち合わせていた。
貴重な純金を溶かしたような髪色、海のものとも山のものともいえるような翠色の光彩。手足はスラリと長く、その容姿だけでも人を平伏せる風貌。偶然森に入った人間がその姿を目にすれば、まるで心を奪われたかのようにその場から動けなくなり、村に戻った後は自分の経験を夢心地で語る。精霊王を目にする自体とても稀なことで、人はそれを畏れながらも欠くはできない神秘としてあやかっていた。
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もう長く、世界を見てきた。崇められる精霊王として人の願いを聞き入れ、均等を保ち人々の平和を願ってきた。
それがどうしてこうなってしまったのだろう。
人々の怨嗟の声が聞こえる。怒り、憎しみ、妬み、苦しみ、痛み、悲しみ。じわじわと蝕んでくるのは、人の子の負の感情。土地を、資源を、名誉を、地位を、奪い合う人間達の声が心を冒す。森が焼かれ、よくないものが降り積もり、憐れで愚かな人の子の争いは少しずつ世界を歪める。
誰か、居ないのだろうか。この世界を導き、争いを鎮めることが出来るものは。
長く人の狂気に晒され、いつの間にか禍々しい姿に変化してしまった自分に、もはや精霊王と言わしめた面影はない。人を惹きつけた美しい姿は変り果て、黒い毛皮に覆われた醜い獣のような見た目は知らぬ者が見たのならば魔物のそれだ。
数か月前から他の精霊王の気配は感じられなくなっていた。既に堕ちた後なのであろう。精霊である自分たちが穢れ堕ちるようなことがあれば、この世界にとっては決して小さくない影響をもたらす。何とか出来るのは自分のみであるのに、その自分ですら後どのくらい人を案じる心を保っていられるかわからない。流れ込む感情に自分のものが侵食されていき、目に映るものどれもが憎く、妬ましく感じる。いけない、このままでは、喚ばなくてはならないこの現状を打開できるだけの存在を。
だからこそ、危険と分かっていながら理を超え、世界を隔てる扉を開いた。持てる力の全てで強く乞う。その素質を持った人間を。辛うじて残っている力で幾日の間探し続けて、それからどのくらいたっただろうか。引力にも似た強い力に引かれて薄れ消えかけていた意識が覚醒する。見つけた、やっと。
身を削りながら漸くたどり着いた先は一寸先も見えないほどの闇。こんなところに希望たる存在がいるのだろうか。瘴気をため込んだ体は重く、移動するだけで身を堕としてしまいそうになる。ようやく見つけた存在を逃さないように丁寧に世界を結び、ごく自然にこちらの世界へと引き入れる。
刹那、経験したことのない目もくらむような眩い光に照らされ、これが希望なのだと確信する。
強い衝撃と共に体に巣くっていた瘴気が四散するのが分かった。厚い霧に覆われていた心が晴れていくのとは対照的に、身体が重く熱くなっていく。一体何が、と自身の身体を見下ろせば、ここ最見慣れていた獣の毛皮ではなく、白い布に包まれた細い四肢が目に入る。どうやら精霊王であった時の姿を取り戻したようだが、それで力が尽きてしまったらしい。ひどい倦怠感に見舞われ、よく見れば身体も全盛期に比べいささか幼く感じる。人が近づく気配に身を起そうとするも不思議なほど体は動かず、状況を確認する間もなく意識が暗転した。
次に意識を取り戻したとき、狭い箱のような不思議なものの中にいた。貴重なガラスがふんだんに使われたその箱の中で柔らかな布に包まれて目を覚ます。ガラスに映った自分の姿を確認するとそこには精霊王の姿をそのまま幼くした姿がそこにあった。異世界への扉を開くという禁忌によって己の能力は枯渇し、二度と以前と同じだけの力をふるうことはできないだろうと直感的に察する。今や身体を成体に戻すことすらできない。
何やら一生懸命に話しかけてく目の前の人の子は、どうやらまだ自分が異なる世界に来たことに気が付いていないようだ。とっさに言葉を返そうとして声が出ないことに気がつく。想像していたよりも力の枯渇は深刻なようで、生命維持以外の機能はほとんど働いていないらしい。
しかし彼は、一言も声を発しない態度を意にも介さず、気を使ったように語り掛け、見慣れない食べ物を与えてくれる。人間にはいつだって畏怖されていた経験しかないため、甲斐甲斐しく世話を焼かれ可愛がられるのは新鮮な心地だった。突然現れ黙ったままの怪しい存在を迎え入れ、警戒することもない青年。この人の好さそうな青年を、自分は無理矢理に引き込んで縁もゆかりもないこの世界を救わせようとしている。そう思うとじりじりと胸が焼けた。
こんな己に名前を与えてくれた、人の子。見返りも求めず手を引いてくれる愛し子。彼のそばに居るときは、その全てが特別だった。うんざりするほど長い時の中でこれほどまでに何かを愛しいと感じたことなかった。
損傷が大きくまだ完全ではないものの、彼と過ごした数日の間で自分はこの身体を本来の姿に戻し、言葉を発することができるまでには最低限力が戻ってきていた。
しかし、そうはせず喋れない子供を演じ続けたのは一重に彼に拒絶されるのが怖かったからだ。彼が優しいのは己が子どもの容姿で、何も知らないいたいけな少年を演じているからなのではないかと思う。もし、元の姿に戻って、自分が彼をこの世界に喚んだと知れば、もう笑みを浮かべてくれないのではないか。それがただただ恐ろしかった。今まで恐れたものなど何も無かったというのに。
なにより、己の独断で行動していたと思っていたものが、伝承と呼ばれる人間たちの中で有名な伝説に予言されていたのだと知ると、どこか薄気味の悪いものを感じた。これではまるで自分がその伝承の通りに物語が進むのを手助けしたようなものではないか。
彼を見つめる他の人間が自分以外の存在が不快だ。彼を連れてきたのは自分で、彼の一番になるのは自分しかいない。もし、精霊王の力さえ戻ってきたなら彼を攫って己の領域に隠してしまおうか。そんな考えが何度も過ぎってきて、何度も否定する。
彼に心を傾けすぎてしまったせいだろうか、己の性質がそばに居る彼にも写ってしまったようだ。すべての魔法を無条件で無力化できる能力の一部を、一緒にいるうちに彼に授けてしまった。この世界では魔法で傷を負わされたり、拐かされることもないわけではない。その点では大きな利点ともいえるが、魔法が無効となると回復魔法も効力を持たなくなってしまう。その点では不安が残った。
だからなるべく注意深く彼の周りを警戒したのが功を奏したのだろう。彼に向けられた殺意に気がつくのにはそう時間はかからなかった。しかし変に行動して彼自身に不信感を持たれるのは得策ではないと考え、時を待つ。
崖へ吸い込まれていく姿に反射的に駆け寄り、共に身を投げる。
落下していく最中に何とか彼の身体を守るように抱きしめたが、この幼体では守り切ることはできない。逡巡を振り払い、隠していた本来の力を解放する。
上手く風を操作して落下の衝撃を殺し、最深部へ着地する。成体ならば抱き込めるほど華奢な身体には、外傷こそないものの落下の衝撃で意識は手放しているいるようだ。
ぐったりとして動かない様子には肝が冷える。思わず強く抱きしめると一定の鼓動を刻む拍動を感じることができて、安堵のため息が無意識に零れた。
もう日が沈むことだろう。湿った風が頬を撫でる。一雨降るかもしれない。
可能ならば彼を連れて早く崖の上へ戻りたいのだが、自分の力はそこまで回復していないようで落下の衝撃を抑えることでまた残量が尽きた。成体に戻っていた身体はまた元のように縮み、こんな形では彼ひとり満足に守ることも、この崖を登ることさえできないだろう。
「ごめんね、僕は君を傷つけたいわけじゃなかったんだ。すまない。君を巻き込んでしまったのは間違いだった」
彼の頭を自分の膝に乗せるようにして労わるように何度も髪を撫でる。彼が怪我をしても己はそれを治すことができない。そのせいで彼が苦しむと思うと、心の臓を握りつぶされるような心地だ。この優しい青年に自分はなんと危険な使命を与えてしまったのだろうか。しかしそんなものは後の祭り。力を失った己に、彼を元の世界に戻すなどという芸当ができるはずもなく、他の精霊王の力を借りなければ元の場所に返してやることさえできない。結局彼に託すしかないのだ。
連れてこなければよかった。この優しい人の子が危険に侵されるくらいならば、こんな世界など捨て置けばよかった。
気温の低下のせいで徐々に冷え始めた彼の指先を暖めるように握りしめ、乞うように額に押し付けて俯きながらながら何度も謝罪の言葉を繰り返す。
意識のない体がこれ以上冷えてしまわないように抱きしめようとしたその時、彼が身動ぐのを感じて俯いていた顔を上げる。
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