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高いところから雫が落ちて水面に弾けるような、細く高い音に導かれるままに崖の岩肌とは逆方向へ進む。しばらく歩いた先はちょっとした森になっていて、木が風にそよぐ音に交じって再び水の音。
深く考えず足を進めていくと突然拓けた場所に出た。広さはそれなりにあるようだが周りを木々に囲まれているためおそらく周囲からこの場所を見つけるのは難しいだろう。蛍的な何かが宙に浮いた幻想的な光景の中でも、最も目を引いたのは天上の月を映す穏やかな水面。どうやら音源はこの水場だったらしい。
水たまりというには大きすぎるが湖というほど大きくはない。実物を見たことがないから何とも言えないが、俺の想像する泉のイメージにぴったりと嵌る。よって俺の中では仮にこれを泉とする。その泉は月明かりを受けてまるで水自体が淡く光っているようで、その美しさに知らずに息をのむ。
吸い寄せられるように水辺へ近づき膝をつく。雨が降ったばかりだというのに透き通った水は日本の清流のように清く澄んでおり、深いところまではっきりと見通せる。随分と浅そうに見えるがこういうのは見た目よりも水深がずっと深いことが多いから気をつけろと誰かが言っていたような気が……見た感じ、中央に向か合うにつれ水深が深くなっているように思う。
時折水面が不自然に揺れるのは何か生き物がいるからだろうか。水の中にいるかもしれない生き物を驚かせてしまわないように、ゆっくりと水面に手を伸ばし指先で触れるとひんやりとした感覚がのぼってくる。気温は低く肌寒いはずなのにその冷たい水が何となく心地よくてもっと触れたくなる。濡らしてしまわないように靴を脱いで今度は両足をつけてみる。この場所なら深さは浅く、足の甲が隠れるか隠れないかといったところだ。もう少し深いところまで行っても大丈夫だろう、そう考えて泉の中央部へ一歩足を踏み出してみる。深さは一気にひざ下くらいになった。服が少し濡れてしまっているのが気になるがもう少しこのままでいたい。
___あぁ、すごく気分がいい。この場所にずっといてもいいかも。
本当はもう一歩深いところまで進みたいが何となくこれ以上足を進めてはいけない気がして、しかし水から上がる気にはなれずぼんやりとその場に立ち尽くす。静かな空間に意識が解けていくようで、それが心地よくて時間を忘れそうになる。幻想的な光景に魅入ってどれくらい経っただろうか。視界がかすんだような気がして一度目を閉じ何度か瞬きを繰り返す。妙にぼやけた視界が元に戻ったのを確認し視線を前方に向けると数m先に人影。いつの間にか出てきたのか周囲には薄い霧がかかっていて、はっきりと断言はできないが人影のフォルムは女性のもののように感じる。もっとよく見ようと無意識に半歩前に出ると、また10㎝ほど体が水に沈んだ。
呼ばれてる、行かなくちゃ____
泉の中央からこちらに向かって手招きしているようにも見える人影に、引き寄せられるように体が動く。あの女性がこちらを見て微笑んでいる。俺に笑いかけて、手を伸ばしている。気が付けば水面は腰ほどに迫ってきており、水を吸った服が重く煩わしい。早くいかなくちゃ、はやく。
ふいにその場にそぐわない軽快なメロディーが響いた。規則的なリズムを刻むその音は酷く聞き覚えがある。これは、_____着信音だ。
静寂に響き渡る着信音にかすみがかっていた意識が正常に戻っていく。気が付けば臍上まで水に浸かっており、あと数歩進めば頭のてっぺんまで水の中だろう。
もしかしなくても俺、すごく危ない状態だったのでは……?遅まきながら自分の状況を理解して血の気が引く。「そういうのと波長が合うと引き込まれるんだよ。たまにいるんだよな、心霊スポットとかに面白半分で行って帰りたくないって言い出す奴。そうなるとだいぶ危険信号だから……」何時ぞや霊感のある友人が言っていた言葉を思い出す。まさかな、と思いたいが先ほどまでの自分は明らかに説明がつかないものであった。
突然体の感覚が戻ってきて刺すような水温に強烈な寒さを覚え、震えを押し殺しながら静かに後退を始める。先ほどまで微笑んでいた女性の姿はもうない。いや、最初から誰もいなかったのかもしれない。だってあの人影は間違いなく水面の上に立っていたから。そんなこと普通の人間にできる芸当ではない。
周囲を取り巻く霧はますます濃さを増し、気を抜けばどちらに進めばいいのか分からなくなってしまいそうだ。一歩ずつ後退を繰り返し浅瀬を目指す。感覚的にそろそろ半分くらいは戻ってきただろうから、このまま一気に……と体の向きを変えた瞬間何かが俺の足首に巻き付いた。あ、死んだ、と直感した。
「○×$▲☆♭#%※!」
恐怖のあまりわけのわからない悲鳴を上げながら取り敢えず暴れる。こういう時理性なんて働くもんじゃない。何とか振りほどこうと全力でもがくものの、俺の脳内では水底へ誘い込もうと足にしがみつく恐ろしい形相の女がそれはそれは鮮明に、4K解像度くらいで再生されている。
こんなところまできて心霊現象で死ねるか!!死にそうになる心を何とか奮い立たせて脱出を試みるが、逃げるどころかますます身動きが取れなくなってくる。加えてものすごい力で引っ張られてずるずると深い方へと移動するのを止められない。こんな状況では何かを作り出すことさえ不可能だ。ならせめて助けを呼びたいが口から出るのは情けない悲鳴ばかり。とっさの判断で胸ポケットに入れていた携帯を放り投げる。運よく地面に落ちればもしかしたら、俺がいないことに気が付いたアートが気が付いてくれるかもしれない。くれないかもしれないけど。
「うわっ、待って!無理無理、こわいぃぃぃ!!」
絡みついてくる何かは足首だけでは飽き足らず、腰ごとひっつかんで引きずりこんでくる。そんな状況で長く踏みとどまっていられるわけもなく抵抗もむなしく、俺は水中へと沈んだ。
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正直死んだと思った。でも死んでなかった。
俺は現在洞窟らしきところで、巨大ナマコ(?)と向かい合っている。パンツ一枚で。何を言っているか分からないと思うが、俺も何が起こっているのかわからない。
あの時、水の中へと沈んだ時。俺は怨霊にとり憑かれたとばかり思っていた。状況が状況だったから十中八九そうだろうと思っていた。でも水中で俺が目にしたものは怨念にまみれた女の霊ではなく、俺に絡みついてくる無数のタコの足のようなものと、その本体と思われる巨大ナマコだった。細かい歯が円形に並んだ口がパクパクしているのを見て意識が飛びかけたが、そこでようやくここが異世界であることを思い出した。
それからは、水中を結構な勢いで引き回された後に、ぽいっと岩の上に放り出された。狭い洞窟内であったが不思議と真っ暗ではなく、逃げるくらいの視界は確保できた。だから何とか逃げようとしたものの、あれよあれよという間に服をはぎ取られ現在に至る。
ナマコもどきは俺から少し離れた位置でこちらを窺っている(ような気がする)。気色悪いことこの上ないビジュアルではあるが、幽霊じゃないだけ幾分かマシである。幽霊じゃない=物体である=たぶん物理攻撃が通じる、という理論を展開して意識を集中する。どこからでも来い。できれば来てほしくないけど!
にらみつける俺の視線に対し返事をするように、タコ足がうねうねと揺れていた。
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