怪談、鬼女の婿選び

2/2
前へ
/11ページ
次へ
 その夜、ドカドカと廊下を踏みならして近江が離れに入ると、そこは少し異様な状態になっていた。  真ん中に眠る小夜姫の布団があり、枕元にはヨリが。その隣には新左衛門がいる。小夜姫の足下には伊助が。そして隣に空席が設けられている。 「おい語り部、本当に姫が目を覚ますんだろうな」  縁を踏みつけ入ってくる近江に、ヨリは笑って頷く。二本の蝋燭の明かりが揺らめき、香炉から漂う香りが異質な空間を作り出している中で、近江の存在だけが異物のように浮いている。 「? おい、あの用心棒はどうした」 「キョウでございますか? 彼がこの場にいては邪魔となりますので、別室にて控えさせております」 「なら構わん」  昨夜、よほど肝を冷やしたのだろう。なんとも小心な近江の心を見透かして、ヨリはスッと息を吸った。 「それでは、これより小夜姫に取り憑いております魔物を、ここにお呼びいたします」 「なに!!」  淡々とするヨリの言葉に近江は腰を上げた。でかい図体をして肝の小さな男の狼狽した顔を、ヨリはとても疑問そうに伺った。 「どうされましたか?」 「どうもこうもあるか! 魔物を呼ぶなんて聞いてないぞ!」 「おや? 姫がこんなにも長い眠りについて無事であるのはきっと、魔物がついているからだ。そう仰っていたのは近江様、貴方様だと伺っておりますが」 「それ……は…………」 「てっきり、既にご存じだと。それでも愛しい未来の妻を案じて駆けつけて下さったものと思っておりましたが」 「と……当然だ!」  冷や汗を浮かべた男がどっかりと座り直す。その隣では伊助が微動だにせず、じっと姫を見ている。  日中こちらの準備をしている間、キョウを町へとやって少し話を聞いてこさせた。それによると、大名家は魔物に憑かれている。それを証拠に一人娘の小夜姫はずっと眠っている。お祓いをしても無駄だった。と、触れ回っていた事を知った。  もとより大らかな新左衛門は民に慕われていたが、長く奥方が伏していたことや、新左衛門が裳に伏していた事、そしてこれらの噂によって足が遠のいていたのだと。  孤立させることで自分だけが味方なのだと、近江は思わせたかったのだろう。今日まではそれも成功していた。が、ここからはそうはゆかない。 「それでは、これよりこの場にいる魔物を呼び出し、語りでの浄化をご覧入れましょう」  ヨリが深く頭を下げ、手元にある鈴を一つ鳴らす。 リィィィィィン…………  余韻を残す澄んだ音が室内に響き、闇に消える。それを数度繰り返すと室内は徐々に冷えていき、体に空気が纏わり付く不快な空間へと変わっていく。  襖が、障子がガタッと音を立てる度、近江はそれらの方を見て震えた。  音は更に強さを増していく。ガタガタと常に戸が揺れ、ザワザワと気配がそこら中でする。近江はその全てに怯えて見回し声を上げた。が、伊助と新左衛門はジッとそれを耐えるように膝の上で手を握っている。  ふっ……と、灯していた蝋燭の火が消えた。途端静かになった室内は異様な空気に包まれる。これから何かが起る予感を全身で感じる中、床のなるギィィ、ギィィという音がした。  ふと、部屋の前で音が止む。途端に標的を見失ったように近江が辺りをせわしなく見回す中、ヨリがすっと頭を下げた。 「おいでになりました」  瞬間、近江の前にそれは立った。  白装束に長い黒髪、それを見上げた先にあるのは青白い肌に黒い二本の角を生やした鬼女であった。爪は黒く鋭く、伸びた犬歯は鋭く人の肉など簡単に食いちぎる事ができるだろう。 『おのれ……私の大切なものを踏みつけるのは……お前かぁぁ!』 「ぎゃぁぁぁ!!」  鋭い爪を振り上げる鬼女を前に近江は腰を抜かして後ずさり、慌てて逃げようとする。が、それすらもままならない程に震えている。振り下ろされた爪が着物を引っかけ大きく裂けると、近江はまるで断末魔の悲鳴を上げて倒れ伏し、白目を剥いて泡を吐き、ピクピクと痙攣しながら失禁する。  それを見て興味をなくしたのか、鬼女の目が眠っている姫へと向けられる。ゆっくりと歩を進め、再び爪を振り上げた。その時、恐ろしい鬼女の前に両手を広げ立ち塞がった影があった。 「お待ち下さい、奥方様!」  震えながらも進み出た伊助の前で、鬼女はピタリと足を止めた。そして言葉もなく、ジッと伊助を見据える。白銀の、感情の読めない虚ろな目で。 「この方を傷つけてはなりません。この方は、貴方の大切な宝物ではありませんか!」 「…………」 「不甲斐ないばかりに、この家をお守りできず申し訳ありません。お怒りは全て俺が受けます。ですからどうか、姫様だけは!」  恐ろしさはあっただろう。事実、伊助の足は震えていた。人を食らう魔物を前に恐怖を感じない者の方が異常なのだから、これが正しいのだ。それでも必死に立ちはだかり、言葉を尽くして伝えようとする彼の姿勢はひとえに、姫を思う心なのだろう。  鬼女はそれでも、振り上げた爪を収めることはしていない。このまま振り下ろせば肉が裂けるだろう。  チラリと、鬼女が新左衛門へも視線を向ける。こちらも腰が抜けているが、逃げる事はない。涙を流してひたすらに、「貴代、すまん」と繰り返し祈っている。  視線は再び伊助へ。そして、振り上げた爪を勢いよく振り下ろした。 「!!」  ギュッと覚悟して目をつむった伊助だが、その手が肉を切り裂く痛みはなかなか来ない。一瞬過ぎて分からなかったか。目を開けたら既に食われた後かもしれない。心臓が嫌な感じに鳴り響き、体の外に飛び出してしまいそうだ。 『いい子ね、伊助』 「!」  優しい声がして、伊助はパッと目を開けた。目の前には相変わらず鬼女がいる。だが、浮かべる表情はとても穏やかで、生前の奥方そのものだった。 「奥方、様……」 『お前が責任を感じる事など、何一つありません。よくやってくれています。小夜を支えてくれて、有り難う』 「ですが……」 『どうかこの先も、あの子を支えてあげて。あの子の気持ちに、応えてあげてください』 「そんな! 俺なんて」 『いいえ、お前でなければいけません。何も気にする事はありませんよ』  そっと、その長い爪が傷を付けてしまわないようにと鬼女は触れる。そして穏やかな視線が新左衛門にも向けられた。 『お前様』 「貴代、すまない。儂は……」 『しっかりなさいませ。小夜を守ると、約束してくれたではありませんか』 「すまない!」 『……愛して下さった事に、感謝しています。忘れずにいてくれる事に、感謝いたします。ですが私は既に死んだ者です。貴方の一番がいつまでも私ではいけません。小夜を守れるのは、この家を守れるのは、生きている貴方にしかお願いできません』  すっと新左衛門の前へと移動した鬼女が、大切に触れる。新左衛門は涙を流して頷いた。 『これが、最後になります。貴方がしっかりなされば、あのような輩を追い出す事は簡単です。小夜にはもっと相応しい殿方がおります。それを今宵、証明いたしました』  新左衛門の目が立ち尽くす伊助へと向けられる。そして確かに頷いた。  鬼女もまた、満足そうに微笑む。そして視線を、静かに成り行きを聞いているヨリへと向けた。 『やはり、ここまで落ちては自らの意志で戻る事は叶わないようです。送っていただけますか、語り部殿』 「えぇ。謹んで、お受け致します」  一つ丁寧に頭を下げたヨリは、静かに息を吸う。だがそこから紡がれる声は普段の冷気を伴わない、温かみのあるものであった。 「とある国の殿様には、一人の姫がおりました。ですがこの姫はある日突然病にかかり、起き上がる事もままならなくなってしまったのです。 医者に診せても原因すら分からない。坊主に見せると、鬼がついていると言うではありませんか。 困り果てた殿様は、姫についた鬼を退治した者に褒美を取らせると札を出しました」  小夜姫の枕元に座り、静かに語りを聞く鬼女の手が娘の髪を梳く。そこにいるのは鬼女の姿をした慈母であり、側にある鬼子母神にも似ている。自然と、恐ろしさはなくなっていた。 「真っ先に名乗りを上げたのは、腕自慢の男でした。男は数人の仲間を連れて姫の部屋の前に陣取りました。 が、山のように大きな鬼を前にして腰が抜け、命からがら逃げ帰ってきました。 そのような男が逃げ帰ったとあらば、次ぎに続く者はなかなかありません。弱り果てている殿様の前に、一人の男が名乗りをあげました。 城の庭番をしている男でした。 彼はなんとしてでも姫をお守りしますと進み出ます。正直殿様は無理だと思いましたが、他に名乗り出る者もありません。ここは一つ試しにと、庭番を姫の部屋の前に置きました」  ふと、鬼女の視線が伊助へと向く。彼は俯き、考えているようで顔が上がらない。だが、ギュッと手を握ってヨリの声を聞いていた。 「その晩、あの鬼が出ました。山のように大きな鬼が庭番の男を掴みます。 『出て行け! あの娘は誰にも渡さぬ!』 怒鳴る鬼の手に僅かに力が入ります。ですが庭番はジッと鬼を見つめて告げました。 『ここをどける訳にはゆきません』 『では捻り潰してくれる!』 鬼の手に力が加わり、庭番をギリギリと締め上げます。が、それでも庭番の若者は逃げません。鬼の方が困った顔をする始末です。 『何故逃げない』 『姫様をお守りすると決めてきたからです』 『何の為だ!』 『姫様の事を好いております。好いた女子が苦しむ姿を見るのは忍びないと思うからです』 その言葉を聞き、鬼はジッと庭番を見つめ、やがて手を離しました。 『城の軒下に、大きな鼠が住み着いている。それを殺して城の外で焼き捨てろ。直に病は治るだろう』 鬼はそう伝え、消えていきました」  ほんのりと、鬼女の体が光りを放つ。内より溢れる柔らかな光りは鬼女を元の優しい慈母へと戻していく。爪も、牙も、角も消えていく。 「貴代!」 「奥方様!」  ヨリはほっとしていた。半分魔物に落ちた者を本当に語りのみで逝かせてやれるか、試みたことがなかったのだ。最悪キョウに斬らせる為に控えさせていたが、これならば上げてやれそうだ。 「翌日、この事を庭番が殿様に伝え軒下を浚うと、確かに子猫ほどもある大鼠が住み着いて、自らの尻尾を咥えてグルグルと回っていた。 庭番がそれを竹槍で突き殺し、そのまま城を離れた辻で焼き捨てました。すると姫の病はみるみる良くなり、数日もすれば起き上がれるまでになりました。 そしてそれ以来鬼は現れなくなり、庭番は褒美として姫と結婚する事になりました。 もとよりひっそりと、姫と庭番は思いを通わせていたのです。 身なりを整えた庭番は凜々しい青年になり、殿様も大変驚き二人の結婚を喜びました。 ところで、あの鬼は一体なんだったのでしょうか? 一説には、姫の幼い頃に亡くなった母親が、娘を案じ相応しい男を選ぶために行った婿選びだったのではないか。そんな話がまことしやかに、囁かれているそうです」  話を終えて丁寧に一礼したヨリの側で、母はすっくと立ち上がる。既にその体はだいぶ透けていた。愛しそうに姫を撫で、新左衛門を抱きしめ、伊助を抱きしめる。そして最後にヨリの前に来て、丁寧に一礼した。 『世話になりました、語り部殿』 「こちらこそ、良き話を頂きました」  最後、母は傍らの鬼子母神を指さす。するとミシミシと音がして、木像が真っ二つに割れ、その中から小さな巻物と大きさの違う鍵が二つ転がり出た。 「これは!」 『お前様、毅然としてくださいませ。この家を、お願い致します』  朝日が昇り、差し込む光に母は消えていく。蝋燭の炎が消え、白煙が揺蕩(たゆたう)うような余韻を残して逝った母を、皆が静かに見送ったのだった。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加