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鬼となった娘と高慢な男
その夜、ヨリとキョウは主人の宴に呼ばれた。
伊助に案内された宴の席には主人の新左衛門ともう一人男が座っていた。
実に、礼儀のなっていない横柄な男であった。目上の者と同席するというのに派手な着物を着て髪はざんばら。まったく気を遣う様子はない。体も大きければ態度もでかい、実に鼻につく男だ。
「はっ、盲か」
「!」
侮蔑し、鼻で笑う男にキョウが一瞬殺気立つ。普段明るい犬のような相棒だが、これで怒ると手がつけられない。真面目な性格故に生前から今日まで鍛錬を忘れたことはなく、ヨリが良いと言えば躊躇わずこの場を地獄絵図に変えるだろう。
が、それは遠慮願いたい。せっかくいい匂いがしている食事をわざわざ不味くする必要はない。それに、既に言われ慣れた言葉だ、今更痛くもない。この目が現を映さなくなったことに、一切後悔してはいない。むしろキョウを繋ぎ止められたのだから、でかしたと褒めてやりたいくらいだ。
軽く手を上げて制したヨリは、こっそりと伊助に男の事を尋ねた。
「あの者は?」
「……町の大店の、どら息子だ」
あれが……。
ほんの僅か名が上がったのは、どうやらあの人物らしい。なるほど、随分だ。
伊助の気が揺らいでいる。色で言うなら、怒気の赤。憎しみすらも含む目で男を見る伊助に気づいたのだろう、男がニヤリと笑った。
「なんだ伊助。何か言いたそうだな」
「……何もございません」
「そうだよなぁ。捨て子のお前が俺様に何かを言う資格はないよなぁ」
「っ……」
伊助は我慢した。手の平に爪が食い込み血を流している。歯を食いしばり俯いて、溢れそうな怒りを抑え込んでいる。奥歯が擦れる音、僅かな血の臭い。ヨリはそれを感じて、静かに息をついた。
「語り部殿、まずは席に。誰かお酌を」
新左衛門が頼りない声を上げ、女中の一人が徳利を持ってヨリの杯に注ぐ。程なく宴は始まったのだが、なんとも不味い酒だった。
男の名は近江松次というらしく、金貸しをしている。生家は材木問屋で大店。横柄にもなるというものだ。
近江は大きな声で新左衛門に高圧的に話しかける。それに新左衛門は小さく「はぁ」とか「えぇ」とか言うばかり。それは些か奇妙なもので、何より飯が不味くてかなわない。
「何故、新左衛門様は言われっぱなしなのでしょうか」
静かな声で問いかけると、伊助もまた小さな声で返した。
「借金だ」
「借金?」
「あぁ。奥方様の薬が高くて、それで」
「なるほど。よくある事です」
だからといって家族を見殺しにするのは忍びない。特に、愛しているのならば精一杯をしようとする。そうして家を傾けた者の話など、五万と知っている。
そして、愛など理解していないヨリもこの思いだけは知っている。キョウの死を受け入れられなかったからこそ、ヨリは目を失ったのだ。
「では、もしかして先ほどの姫の?」
「……入り婿に、なる予定だ」
それを聞き、ヨリは姫に同情した。どんな事情があっても、このような男だけは夫にしたくないものだ。傲慢で横柄で粗野。おそらく女性を道具かなにかと勘違いしている手合いだろう。
「姫様が眠らなければ、今頃祝言の運びとなっていた。原因は分からないし、早く元気な姿を見たいと願っているが……この事だけは吉事と、思ってしまうんだ」
「…………」
そう思う者が、他にもいるのかもしれない。
何やら怪異の糸口が見えた気がする。ヨリがそう感じている時、不意に大声が「盲人!」とヨリを呼んだ。
「つまらん宴に飽きてきた。何か語れ」
その言いように今度こそキョウが腰を上げそうだったが、ヨリは制してにっこりと微笑む。師からは「顔だけならどこぞの殿様を誑かせる」と言われた事もあるし、ヨリ自身も不細工とは思っていない。少なからずこの顔の笑みは人を魅了し、汚い口を黙らせる事ができるだろう。
事実近江は面食らったようにヨリに見入り、口を閉じた。
「それでは一つ、失礼いたします」
新左衛門の正面末席に座り直したヨリは、スッと息を吸う。途端、座敷の空気が僅かに冷えた。語り部の全身から放たれる不穏な空気に、誰もが口を閉ざしてその姿を見た。
「とある城に、結姫というそれは美しい姫がおりました。一人娘で、母を早くに亡くした結姫は、周りの者からも大層可愛がられておりました。
欲しい物は全て手に入る。気に入らない者を辞めさせる事もできる。
いつしか姫は優しさや思いやりといった心を忘れ、大層傲慢な娘になってしまったのです」
澄み渡るような声が静かに語る。音を一つも立ててはならない、そんな空気の中をヨリの声だけが響いていく。引き込まれるというのは、まさにこういうことなのだと、この場にいる誰もが体感していた。
「さて、結姫も年頃となり、気に掛かる若者ができました。城に出入りする正臣という青年で、城に仕える師と共に、最近登城するようになった者でした。
涼しげな目元、優しげな笑顔。姫のみならず、城で働く女達は正臣に熱を上げました。
ですが彼には、既に将来を誓った相手がいたのです。
茶屋の娘、お鈴とは幼い頃からの付き合いがあり、成長してからは恋仲に。正臣は武士として独り立ちした暁にはお鈴と祝言をと、心に誓っていたのです。
ですが当然、結姫はこれを認める事ができませんでした」
誰かがゴクリと喉を鳴らす。既に悲劇の予感しかない展開に、誰もが眉根を寄せる。が、同時に続きを求めてもいる。結末は予想ができるが、その間に何があるのかを知りたい。それが物語の命であり、語り部の技量だ。
「結姫は正臣に迫りました。蝶よ花よと甘やかされ、美しく育った自分が、まさか茶屋の娘に負けるわけがない。自信満々に上から物を言う姫の態度に正臣は困惑し、誘いには乗らない。
ならばと高価な品を贈ったが、正臣は受け取る事を拒んだ。
長年築き上げてきたお鈴との愛情は、物や金、権威などでは揺らがなかったのです。
業を煮やした姫は、ならばと非情な事を考え、部下に命じました。正臣を籠絡できないのであれば、お鈴を落とすしかないと」
伊助の気配が揺れた。新左衛門も固まっている。ただ一人、にやりと笑う気配を感じる。近江だけが薄らと、この話に笑みを浮かべた。
「ただ落とすだけでは気が済まない。結姫の策略により、お鈴は無法者達に襲われてしまったのです。
ぼろぼろの姿のまま、お鈴は涙ながらに正臣に謝り、別れを告げます。結婚するまでは清くあろうと誓い合ったのに、操を守る事ができなかった。
今にも死んでしまいそうなお鈴を支え、正臣は言います。
『それでも構わない。君に伝えた気持ちに、今も陰りはない。共に生きよう』
と」
息を詰めた伊助の気配が緩む。新左衛門など感動でもしたのか、涙を拭って頷いている。
が、ここで終わっては単なる駆け落ち話。ヨリの得意は、怪談だ。
「二人は直ぐに手を取り合って町から逃げました。正臣にはこんな事をしたのが誰か、予想がついていたのです。このままではお鈴が殺されてしまうかもしれない。
夜闇に紛れて若い男女が走り去るのを、町の門番は見逃しませんでした。そうして直ぐに追っ手がかかります。
険しい山道。男の正臣はどうにかなっても、女のお鈴はどうしても遅れてしまう。繋ぐ手が後ろへと引かれ、自然とお鈴に引っ張られる。
『私の事は置いて逃げて下さいませ』
『何を言う、二人で逃げなければ意味がない』
『このままでは正臣様まで殺されてしまいます』
『そんな事はさせない! 君の事は必ず守る!』
追っ手の足音が、声が、気配が徐々に迫り、とうとう見つかり声が上がる。尚も逃げるが、逃げ切れない。開けた場所に出た所で、正臣は刀を抜いて追っ手と正面から見合った」
お鈴の声は女性のものに、正臣の声は若く雄々しい男の声に。自らの声を自在に変え、ヨリの語りは少しだけ早くなる。引き込まれた聴衆が先を欲して少し前のめりになる中、近江だけは冷めた顔をする。先ほどお鈴が辱めを受けた所などは笑っていたというのに。
「追っ手は十人。正臣は獅子奮迅の活躍でどうにか六人までは斬った。が、お鈴を庇いながら、多勢に無勢のこの戦いの結末は火を見るより明らかだったのです。
刀を飛ばされた正臣は袈裟切りにされ、更に背や胸を刺され、絶命します。そして、その正臣に追いすがったお鈴もまた。
『なぜ……誰が……誰がこんな事を……? 私が何をしたと言う。正臣様が何をしたという! 誰が…………ぁ……誰だぁぁ!』」
「!!」
恨めしい女の声がひたひたと迫るように呟かれ、時にうわずり、時に掠れ。そして最後の声は今まさに、人が人ではないものに落ちた、その断末魔のようであった。
腰が引けた者が大半。その中でも近江の腰は引けて自慢の着物に酒をこぼした。
それでもヨリの語りは終わらない。更に加速するように、話は早く展開する。
「お鈴の体が真っ黒く染まり、ぼこぼこと歪に膨れて大きくなり、月明かりさえ遮っていく。肝を潰した追っ手が慌てて逃げるが、魔物となったお鈴はその巨体からは信じられないほどの速さで追いつき、男達の首を一遍に食らっていく。獣のように四つん這いで、さも美味そうに頭を食らったお鈴であった者の目は、この場所からも見える城へと向けられる。四肢で地を蹴り、猿のように木から木へと飛び移り、叫びを上げて憎き女の元へと向かった。
その頃、何も知らない結姫は明日を楽しみにしていた。純潔を散らされ、合わせる顔もないお鈴が正臣の前から消えればいい。たかが町娘が姫である自分より上に立つことが許せない。あの女がいなければきっと、正臣は応えてくれるはずだ。
そんな事を考えている結姫の上に、黒い影が差す。障子に浮かぶ人ならざるモノの影に、結姫は悲鳴を上げて逃げ惑った。が、当然許されるはずが無かった。
丸太のような太い手が結姫の体をむんずと掴み締め上げる。これだけで虫の息となった結姫が最後に見たのは、口を開けた魔物の鋭い牙であった。
自慢の美しい顔から食べられ、無残に食い散らかされた結姫の元に城の兵が駆けつけた時、部屋は血の海であった。が、そこにお鈴の姿はなかった。
この峠道では時々、大きな獣の吠え声が聞こえるそうです。声に驚き振り向くとそこには、愛しい男の骨をかかえた悲しい魔物が、大きな口を開けて獲物を食らっているそうですよ」
ゆっくりと最後の言葉を吐ききったヨリは、静かに座す。新左衛門は恐怖に顔を引きつらせ、伊助は微動だにしない。
が、そんなヨリめがけて酒の入った杯が投げつけられた。
「下らん語りなど聞かせやがって! 不愉快な語り部め!」
乱暴に徳利を掴みズカズカと近づいた近江は、ヨリの頭に酒をぶちまける。白髪からしたたる酒の臭いは強烈で、白い着物も汚れてしまう。
「貴様!」
キョウの燃えるような赤い瞳が怪しく光り、一歩出る。その迫力はおそらく、この話の魔物よりも威圧的で殺気だっていただろう。
「っ! 不愉快だ、帰らせてもらう!」
怯んだ近江がズカズカと出て行く中、ヨリはとても丁寧に手をついて、新左衛門に向かって頭を下げた。
「怪談、峠の吠え鬼でございます」
酷く異様なこの宴は、これにてお開きとなった。
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