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娘の嘆きと母の思い
慌てて女中が手ぬぐいを持ち、すぐに湯へと案内してくれた。着物も洗うからと言われ、替わりを借りた。
が、その間ずっとキョウの機嫌は悪く、平時あれだけ犬のように人懐っこいというのにしばし殺気だっていた。「忠義者」とからかうように笑うと拗ねるので、よしよしと頭を撫でてやった。
そうして頼んだ通り、二人は離れに宿を取った。詫びの気持ちだろうか、二人分の布団が敷かれた部屋には新しい徳利とお猪口が用意されている。
「おや、嬉しい事です。どうやら主の新左衛門様は下の者にも心を砕く御仁のよう。本来民としては、そのような主人こそが良いでしょうに」
早速一献、とキョウへとお猪口を差し出すが機嫌が悪い。苦笑し、キョウの分のお猪口に酒を注いで前に置き、自身は手酌で月見酒。酒は舌にスッキリと、鼻には軽く華やかに、そして体を僅かに熱くする。上物に間違いがない。
「この酒は、本来こんなにも美味いものだったのですね」
実に残念な事だ。あのような者が同席していなければ、さぞ楽しい宴であっただろう。ヨリとてあのような話を選んだりはしなかった。もっと……そう、亡き妻を思わせるような、夫婦の温かな話を選んだだろうに。
しばらくヨリが一人飲むのを見ていたキョウも、少しして荒っぽくお猪口を手にし、一気に飲み干していく。これ一つでキョウの頬は僅かに赤くなった。
「ヨリ様!」
「なんですか?」
「どうして止めたんです! あんなの、斬ってしまえば万事解決するじゃないですか!」
ずっとそれが引っかかっていたのだと言いたげに、キョウは珍しくヨリを睨む。この男、酒を飲むと顔はすぐ赤くなるがここからが長いし、酔って粗相をしたこともない。だが、いつもより少しだけ大胆な事を言うようになる。
「主をあのように愚弄され、手を上げられて平気な顔をしている用心棒はないんです! 貴方の目が見えないのは、俺が…………くそ!」
「くくっ」
「何も面白くない」
「ふふっ、忠義者。私は気にしていないと言ったでしょ。あんな安い言葉に乗って面倒を起こす方が大変です。言わせておきなさい」
「ですが!」
「弱い犬ほどよく吠える。まぁ、ここに強いのに吠える犬もおりますが」
キョウは思い切りふて腐れてぶすくれている。笑い、手を伸ばして頭を撫でてやっても今日は駄目らしい。困った忠犬に苦笑し、ヨリは本当の所を語った。
「ここでお前がアレを斬れば、迷惑が掛かるのはこの家の者です。私たちは土地を遠く離れて寄らぬようにすれば難を逃れますが、ここの者は違う。故郷を離れる事は、寂しい気持ちになりますよ」
「…………はい」
分からぬ男ではない。根が優しい男だ、怒りが収まれば理解もする。納得したかは別の話だが。
「ですが、あの男が大きな顔をするのは業腹です。どうにかなりませんか」
「私は厄介ごとを治める為にいるのではないのですがね。まったく」
とはいえヨリも、あの男が大きな顔をしてこの家に入り込み、我が物顔をするのは気に入らない。秩序というものが壊れるだろう。
「ただ」
「?」
「あの男はこの家に相応しくない。そう思う者は多いでしょう。そういうモノが、あれを追い出しますよ」
「いい手があるのですか!」
途端に嬉々とした顔をするキョウに、ヨリはニッと三日月の笑みを見せた。
「それは、これからですよ」
その夜、眠りについたヨリは急激に周囲が冷えていくのを感じた。
ひた……ひた……
足下から気配がする。それはゆっくりと、指の一本一本を絡めるように足首を強く握る。
冷たいその手は確実に、ひたり、ひたりと這い上がる。足首から、膝、太股へと、二つの手だけが徐々に上がり、冷気も一緒にあがってくる。足先から徐々に雪の中に埋められていくような、芯から冷える感覚が全身を包んでいく。腹から、胸……そうして、冷たい手が首にかかった。
『出て行け……私の邪魔をするな!』
それは間違いなく、女性の声であった。首にかかる手も女性のようにほっそりとしているし、胸に掛かる重みも男のモノとは違う。
確信した。此度の怪異はこの女性が起こしている。
「邪魔だなんて。私は貴方の味方ですよ、奥方様」
『!』
虚を突かれたように女の気配が少し離れそうになる。だがその前に、ヨリは白銀の目を開いた。
『何者!』
「貴方の憂いを見せていただきます」
女の黒い目が合い、思いが流れ込む。そこには娘と家を案ずる、優しい母の気持ちが込められていた。
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