最後の作業

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最後の作業

 気分が軽くなり、警告音を鳴らすことなく、走り続けた。5分もすると右足のかかとが痛みだした。やはり、階段を落ちた時に怪我をしていたのだろう。徐々に痛みは増してくる。  21時54分に局に到着した時には、足を地面につけるのが苦しいほど痛み出した。バイクを降りるとすぐに靴を脱いで確認する。靴の外にまで血が染み出している。靴下も靴の中も血で真っ黒になっている。靴下を脱ぐと、アキレス腱あたりから踵にかけて大きく擦りむいている。血は固まりかけているが、まだ血が流れ出ている。アキレス腱を切ったとか、骨を折ったとか、大ごとではないようだ。単に傷の範囲が広く、出血量が多いだけだ。これから緊張が解けるにしたがってますます痛みが増すだろう。早く終わらせて帰った方がよさそうだ。靴下と靴を履きなおし、締めの処理へ向かった。  足を引きずって歩いていると、課長と出会い、声をかけられた。  「おそかったな。凹鹿の奴は21時前に戻った来たぞ。」  にこやかに頭を下げて返事をした。  「すみません。また仕事押し付けられたんですよ。」  課長は足を見て心配そうな顔で訊ねて来た。  「足、どうかしたのか?」  足の方を一瞬見てから、課長の方へ向き直って答えた。  「階段で落ちまして。大したことはありませんよ。」  課長はほっとした様子で返してきた。  「気を付けないといかんな。」  配達中に大怪我でもしたら、課長の管理責任を問われかねないし、私が怪我のために長期欠勤となればローテーションにも影響が出る。そのあたりが心配なのだろう。仕事に支障がなければ問題なしという態度だ。しかし、靴の外にまで血がにじみ出てくるのはまずい。歩行に支障をきたすほどの大怪我をしたように見えてしまう。  班の作業台に戻ると、凹鹿がまだいた。棚の後ろを見たり、何かを探している様子だ。  「今戻ったの。手伝うって言ったのによ。」  不貞腐れた様子で話しかけてきた。面倒なので手を振って適当に返事を返した。  「水筒ないんだけど、知らねえ?」  絡んでくるように話しかけてきたので、むっとした顔で返事をした。  「知りませんよ。」  すると、凹鹿はむっとした顔で向かってきた。  「手伝うっていただろ。」  仕事を押し付けた上に、恩着せがましく、助けようとしたなどと言われ、喧嘩腰で向かってきたのに腹が立った。  「ほんとに今日は死にかけましたよ。少しはまじめに仕事をしてくださいよ。」  突如、凹鹿は顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。  「そんなことより水筒が大事なんだよ!知らねえのか!」  訳が分からん。呆れ顔で凹鹿の顔を凝視し返事をした。  「私の命より水筒が大事ということですか?」  凹鹿はさらに激高して怒鳴りだした。  「当たり前だ!てめえの命より大事だよ!」  その瞬間、怒鳴り声を上げてしまった。  「くたばれ!」  凹鹿は一瞬ひるんだが、訳の分からない言葉を大声でわめきだした。  「フックユー!・・・死ね!・・・ゴミ!・・・」  声を聞きつけた課長と、郵便課の課長代理が飛んできた。  「また凹鹿が騒いでるのか!」  「こんどはなんだよ。」  課長達が来ると凹鹿は黙り、うつむいた。課長たちは私の方を向き、話し出した。  「なにがあったんだ?」  騒いだ当人じゃなくて、私に訊ねてくるとは何なんだろう。やはり凹鹿は特別扱いなのか。  「見ての通りです。こいつが、お前の命は水筒以下だと言って絡んできただけです。」  課長が怒鳴り声を上げた。  「こいつとはなんだ!敬意を払え!だから喧嘩になるんだ!」  めちゃくちゃだ。凹鹿に言っても聞かないから私に訊ねてきたのだろうが、被害者は私だ。急に頭が冷えた。これ以上この職場にいるのは危険だ。  「人の命を水筒以下だと言い、恐喝まがいのことをする人間に敬意を払えというのですか?」  課長が驚いた顔をした。そこで畳掛けるように続けた。  「社員がバイトを脅し、上役が社員を庇い、バイトに詰め寄る。これはパワハラですよ。」  不快感をあらわに、課長が答えた。  「だから何だ。面倒を起こすなよ。」  話にならない。問題を起こしたのは私ではないのだが。とにかく問題は先送りにし、有耶無耶にしたいということなんだろ。下手をしたら何らかの処分を下される危険もある。それでいつも通りに社員の凹鹿はお咎めなしか。挑戦するような表情を作り返事を返した。  「被害者に黙ってろとはどういうことですか?加害者には何も言わないのですか?奴は私を恐喝でしたんですよ。上役が恐喝してくるような職場で仕事ができると思いますか?」  課長は苛立ったようすで訊き返してきた。  「辞めるのか?」  話が変な方向へ向かっている。凹鹿の非を咎める話にならない。私が辞める話になっている。これまでも凹鹿は問題を起こすと、暴れたり、喚き散らして責任を他へ転化して来た。上司も問題が拡大するのを恐れて黙認してきた。この会社では問題が起こると、先送りにする傾向が強い。だから、責任を取ろうとせずに強弁を繰り返すトラブルメーカーが大手を振って居残る。逆に押し付けられた人が辞めていく。長居するには危険な会社だと思っていたが、自分に降りかかるまでは、何となく居残っていた。  凹鹿を見ると、うつむいてはいるが、安堵の様子すら見える。私は十分な資産を持っているから辞めたところで問題はない。次の仕事を見つけるまでそれで食いつなげばいいだけだ。凹鹿は短時間社員なので働く時間が短い分、給料も少ない。父親は借金を残してすでに死去しており、身内の支援は当てにできず、貯金もないと聞く。仕事を失う恐怖は私より大きいはずだ。なのに安堵の表情を見せるということは、自分が辞めさせられる危険はないと踏んでいるのだろう。逆に私が辞めそうなのを喜んでいるのかもしれない。  以前に凹鹿をやめさせようと手を尽くした部長がいたが、うまくいかなかった。郵便局で部長の地位は郵便局長に次いで二番目に強い。しかし、この会社ではバイトを切るのは容易いが、社員を切るの難しい。凹鹿は警察沙汰も含めて何度もトラブルを起こしているが、減給などの処分を受けたことはない。  他の社員だが、パートの女と不倫をして女だけ解雇になったケースもある。盗みをしたのに、残っている社員もいる。ある局では社員のパワハラにバイトが団結して抗議したら、全員解雇された話も聞く。労働組合の力が強く、社員には手が出せないのだそうだ。その代わり、バイトや新入社員への圧力が強くなる。  凹鹿以外の似たような社員にも、何度も煮え湯を飲ませれてきたが、もう限界だ。  笑顔で課長に答えた。  「こいつに逆らったから、辞めろというのですね。分かりました。辞めましょう。」  課長は困惑した表情で言った。  「辞めるだって、もったいないだろう。お前の配達は安定しているし、安心感があるんだよ。」  私は、これまで文句を言うこともなく、唯々諾々と指示に従ってたから使いやすいということなんだろう。しかし、いざという時に危険に晒された部下を守るのではなく、責めるような上司の下で働くのは極めて危険だ。トラブルを被る危険の多い職場ではなおさらだ。  「辞表を用意しますから、手続きお願いします。」  騒動にかまけて、足の痛みを忘れていた。傷は浅いが広いうえに歩くたびにこすれて痛んだ。痛みは1週間引かず、傷口が完全に消えるまで数か月を要した。  すぐに辞表を出し、騒動から1か月後に辞めた。  あれから1年たつが、凹鹿はいまだに会社に残っている。最近、将来を有望視されていた新人の社員が凹鹿を嫌い、会社を辞めたそうだ。長年働いている社員とはいえ、問題のある社員を守るために新入社員やバイトを犠牲にする傾向は続いているようだ。  幾つもの会社に勤めたが、犯罪を犯したり、大きな問題を起こした社員を放置する会社は初めてだ。最初の4年は優秀な社員の多い班にいたからよかったのだが、局全体の編成替えにより、新しく編成された班へ移動となった。新しい班は吹きだめのような班で何かと仕事やトラブルを押し付けられ、移動から3年目に鬱の症状が出て体を壊し、凹鹿のいるこの班へ移動となった。辞める1年前から凹鹿相手の夜間応援をするようになり、会社に残る危険性を強く考えるようになった。  元上司や課長、同僚と会うと、必ずいつ復帰してくれるのかと、訊ねられるが、凹鹿のような社員を守るために、新入社員やバイトなどの力の弱い者に負担や犠牲を強いるような職場に復帰する気にはなれない。
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