1.戦

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/20ページ

1.戦

 カエセンニウス・パェトゥスと、ペトロニウス・トゥルピリアスが執政官、皇帝ネロ7年目の年(西暦61年)。ブリタニア南部のウィロコニウム(現在のロクシター)とウェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)の中間辺り。  谷間にブリトン戦士が集結し、剣を振り回し、盾を叩いて歓声を上げている。我が軍からは距離があり、すぐに攻めてはこないだろう。ブリトン戦士の多くは上半身裸で、青を中心にした染料で体を染め、丸や楕円など様々な盾と長い剣で武装している。男だけでなく、女も多数いる。男と同様に体を染め、剣と盾を持ち、上半身裸だ。体形から容易に区別できる。ブランウェンもあの中にいるのだろうか。私に刃を向けるのだろうか。もし目の前に現れたとして、私は彼女に剣を向けることができるだろうか。いや、そんなはずはない。彼女が私の敵手に立つなどありはしない。  徒歩の者の中に少数の騎馬の者が紛れ込み、徒歩の集団の両隣にも騎馬が集まっている。徒歩の集団の中にいる騎馬が指揮官で、騎馬だけで集まっている集団が騎馬隊だろう。戦士たちの戦列の前を数台の戦車が行き来している。二頭の馬で引く、木組み枠の二人乗り軽戦車だ。ローマの剣闘場ではあれより重武装で4頭の馬で引く、3人乗りの戦車があるという。それに比べればささやかなものだ。戦車の乗員が戦士たちに何か叫んでいるが、内容までは聞き取れない。戦車の乗員の誰かがイケニ族の女王ブーディカかもしれない。  左の森の中から新たな戦車が現れた。二頭の黒鹿毛の馬が引く赤茶と白の牛皮で作られた戦車に、小柄な2人の人物と長い髪をなびかせた御者が乗っている。ブリトンの戦車に3人も乗車するとは珍しい。小柄な人物は子供だろう。新たな戦車の登場に戦士たちが静まり返った。御者は槍を高らかに掲げて戦士たちの前を横切り、戦車が止まると、女性のひときわ大きな声が響き渡った。  「ブリトン人よ!・・・ローマ・・・死」  内容は切れ切れにしか聞き取れない。演説を終えた御者は部隊を巡り、指示を与えていた。勘違いをしていたようだ。あれが女王ブーディカだ。戦車に同乗していたのは二人の娘だろう。娘はローマの官吏に犯されたと聞くが、あの背丈からするとかなり幼い。幼子に酷いことをする。女王が怒るのも無理はない。  女王ブーディカの演説に触発されたのか、我が軍の正面に騎馬将校の一団が現れた。我が第14「双子」軍団の軍団旗と、僚友の第20「剛勇常勝」軍団の軍団旗も後に従っている。総司令官のブリタニア総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスと、第14軍団長マルクス・ウィニキウスだ。他の将校は知らない。おそらくウィニキウス軍団長と並んで馬を進めているのが第20軍団長だろう。私のほぼ正面辺りで将校団は兵士たちの方を向き、スエトニウス総督が演説を始めた。大きな通る声だが、将校団と最前列の兵にしか聞こえないだろう。  「蛮族を恐れるな!敵は戦士より非戦闘員の方が多い。我が軍は少数だが、戦いに決定的な影響をもたらす少数だ。勝って栄誉を掴め。戦列を詰めて戦い続ければよい。略奪品は期待するな。」  スエトニウス総督は女戦士を非戦闘員と思っているようだ。ローマ人やゲルマニア人ならそうだろうが、ブリトン人は、特にイケニ族は違う。女戦士は多く、大勢の男を率いる女戦士も少なくない。剣や弓の腕も侮れない。現に総司令官の女王ブーディカは女だ。  演説が終わると、将校団は後方へ立ち去った。スエトニウス総督が演説した場所の真正面で最前列にいた我が中隊が最前線になりそうだ。両側は木に覆われた丘陵で、丘上には弓兵や投石兵、大弓や投石機を装備した砲兵隊がいる。砲撃の邪魔にならぬよう、一部の木を切り倒したようだ。なだらかな坂がブリトン人の所まで続いている。こちらからの見通しはよい。ブリトン人から見れば坂の上の谷間に我が軍がいる形だ。敵にとっては攻めづらい地形だろう。この谷間を塞ぐように3個大隊が横隊で並んでいる。背後にはさらに多くの大隊が待機している。  相手方からは叫び声や、盾を叩く音が鳴り響く。対する我が軍は静かだ。装備が擦れる金属音や、馬のいななきが聞こえるくらい。無駄話をする者はいない。  目の前に水袋が飛び出した。右隣にいた第3小隊の兵が差し出したようだ。驚いて水袋を受け取り、右を向くと飲むしぐさをして合図している。戦い前の酒だ。一口飲んで、左隣の第5小隊の兵へ回した。初めての会戦に緊張して儀式を忘れていた。この手の会戦前には必ず、景気付けの酒が出る。特に、最前線の我々には上等の酒が出るが、この状況で味などわかるはずもない。酔った勢いで敵を圧倒せよというが、これでは酔えない。  「防御に徹しろ。」我が中隊に下された命令はそれだけだ。これがスエトニウス総督の「戦列を詰めて戦い続ければよい。」ということなのだろう。昔、教官に教わったことを思い出した。  「剣を落としても楯だけは絶対に落とすな。帰還するときは盾を持ち帰るか、盾の上で運ばれるかだ。」  盾を持って帰るか、死ぬか負傷して盾に乗せられて運ばれるかの二つに一つ。どちらにしても楯だけは決して失うな、ということだ。我々は盾で壁を作り、自分だけでなく僚友も守る。誰かが盾を失い壁に一つでも穴が開けばそこから敵が入り込む。剣を失っても楯さえ支えていれば陣は破られない。剣だけでは、陣を支えられない。陣を保てば、敵は固い壁にぶつかり、自滅して消え去る。個々の兵は敵が消え去るまで盾を支えればよい。 もし僚友が倒れてもあわてる必要はない。背後に控える兵が穴を埋める。私も倒れるか盾を失ったら、背後の兵に任せればよい。罰を受けるかもしれないが、陣が崩れるよりは遥かに良い。  ブリトン人が動きだした。ざわめきが大きくなり、陣形を整えている。騎馬の指揮官と思しき者たちが、誘導しているようにも見え、徒歩の者たちに叫び声を上げている。  「道空けろ。。。邪魔だ。。。右だ。。。下がれ。。」  徒歩の集団の中央を開けようとしているようだ。徒歩の集団は左右に分かれ、中央を開いて二つに割れた。通路が開くと、背後の森から戦車集団が現れ、ゆっくりと隊列を整えながら徒歩の集団の前方に布陣した。布陣が終わると、ブリトンのラッパ、カルニュクスが一斉に鳴り響いた。ローマのラッパより音が大きく、まるで大勢の人が一斉に喚き散らしているような耳障りな音だ。カルニュクスが静まると、女王ブーディカの号令が響いた。  「続け!」  戦車集団が勢いよく、坂を駆け上がってくる。戦車に続いて両翼の騎馬隊も走り出した。徒歩の集団の中にいた騎馬と戦車は動かない。徒歩の集団は大声を張り上げてはいるが動きがない。まずは戦車と騎馬隊で攻撃をかけるつもりだ。ブリトン人の戦術だと、戦車と騎馬は敵へ急接近し、矢や槍を放った後に反転して下がるはず。 時に敵前で馬や戦車から降りて向かってくるが、ここには馬や戦車を停めておけるほど広い場所はない。下手に馬や戦車を置き捨てたら、後続が攻め寄せるのが困難になるだろう。そうしてくれるのなら我が方としても楽でいいのだが、敵もそこまで愚かだとは思えない。  遠方から命令が聞こえた。命令の叫び声が部隊から部隊へと近づいてきた。最後に我が中隊のマルクス・フラウィウス・アクイラ中隊長の命令が聞こえた。  「亀甲陣!」  私は左へ動き、第5小隊の兵の盾に自分の盾をくっつけ、右隣の第3小隊の兵も私の方へ寄り、盾を寄せた。皆、同様に左右に動き、盾と盾とを密着し、後列の者は列を詰め、盾を頭の上に掲げた。中隊毎に表面が盾で覆われた長方形の箱のような形になる。これで、どの方向から矢や槍が飛んで来ようと、全て盾で受けることができる。隙間がないわけではないが、そこから矢が入る可能性は小さいし、その程度なら鎧と兜で十分防げる。  私の正面に戦車が進んできた。戦車は矢を放つと、左に旋回し、元来た道を戻っていく。我が方の砲兵隊は反撃しない。敵が一方的に矢や槍を浴びせてくる。幸い私の盾には1本も当たらなかった。最後の戦車が矢を放って立ち去ると、次の命令が下った。  「横隊!」  再び隊列を広げ、盾を振り回せるくらいの間隔を開ける。後列の兵も盾を下げて少し後ろに下がる。ブリトン人の戦車と騎馬が下がると、徒歩の集団が坂を上り始めた。指揮官と思しき騎馬や戦車は徒歩の者に速度を合わせ、徒歩の者は歩いている。走り出すにはまだ距離がある。走り出した辺りで投擲だろう。  我が中隊のアクイラ中隊長の落ち着いた、それでいてはっきりとした命令が轟く。  「槍かまえ!」  左手で盾を持ったまま、右手で投槍を一本取り、穂先を下にして左足を前に出し、次の命令を待つ。投槍で狙うのは盾だ。我が軍の投槍は穂先が鉄製で全体の半分の長さがあり、柄の部分が木製で、穂先と二つのピンでつながっている。ピンの一つは木製で、目標に刺さると壊れて槍が二つに折れる。盾に刺さった槍は鉄製の穂先と木製の柄が一つのピンで繋がったまま二つに折れてぶら下がり、盾の扱いを困難にする。敵は盾を捨てるしかなくなる。盾がなければ敵の防具はほぼない。あとは長い剣だけだ。  丘の上の部隊が矢や石を放ち始めた。ブリトン人の中に落ちるたびに悲鳴が上がる。油壺も放たれ、落ちた瞬間に炎が広がり、一段と多くの悲鳴が上がる。獣皮の上着でも着ていれば炎を防げるのだろうが、なにも着ていないのでは防ぎようもなかろう。ここへ着く前に、矢と石だけで終われば助かるのだが、人数が減っているように見えない。ただ、悲鳴の大きさと量は増えている。動揺も見られ、走り出す者もいる。あの距離から走っていては、ここに来るまでに疲れ切ってしまうだろう。  ブリトン人が走り出した。しかし、戦車と騎馬は徒歩に速度を合わせてる。徒歩の者の邪魔にすらなっているようだ。アクイラ中隊長の命令が下された。  「投擲!」  投槍が一斉に宙を飛ぶ。ブリトン人の多くは急停止して盾を構え、投槍を受けた。中には慌てて転んだり、構わず走り続ける者もいる。私の投槍は先頭のブリトン人の盾に刺さった。槍は狙い通りに折れ、ブリトン人は邪魔になった盾を捨てた。アクイラ中隊長の次の命令が下される。  「盾構え!」  左手で盾を構え、左腕と左足を前に出し、右手で剣を抜き、頭を下げて身構えた。後列のデクリウス小隊長が私の背中に盾を押し付けた。相手が勢いよくぶつかっても倒れないように支えるためだ。盾越しに敵の姿が見える。私に向かってくるブリトン人は剣を振りかぶり、口を大きく開けて叫び声を上げている。盾はなく、上半身には何も身に着けていない。下半身はズボンだけ。簡単に倒せそうだ。  敵が盾に体当たりして激しい衝撃が加えられた。衝撃に押し込まれて倒れそうになるが、デクリウス小隊長に助けられ、体勢を立て直した。盾を叩く振動と音が繰り返し響き、左手だけで盾を支えるのが苦しくなる。敵が剣で盾を叩いている。頭を盾で隠れるように下げ、盾の右から覗き込むように相手を見た。少し距離を取って剣を左右に振り回している。タイミングを見て剣を相手の腹に突き刺す。相手は刺されたことに気が付いていない。もう一度刺す。相手はよろけたがまだ剣を振り回している。もう一度刺そうと身構えていたら、剣に振り回されるように倒れて動かなくなった。  倒れた相手の隙間を埋めるように次の相手が剣を振りかざして向かってきた。今度は盾を貫こうと、剣を突き出してくる。時に足で盾を蹴り、払い除けようとする。  なかなかタイミングを掴めない。相手が右側によってこない。盾に向かって打撃を加えては下がる、これの繰り返しだ。タイミングを見計らって剣を繰り出すと、剣を通して右手に強い衝撃を覚えた。剣を叩き落された。相手はローマ兵相手の戦いに慣れている。こちらが剣を突き出すのを待っていた。 すかさず、右手を引っ込め、腰の短剣を抜いたが、これでは短すぎて届かない。やむなく、盾を支えて防戦に徹した。盾に何度も突きを浴びせられ、蹴られ、ひびが幾つも入る。このまま続いたら盾が持たない。交代するにしても攻撃が素早くチャンスを掴めない。少しでも後ろに下がったとたんに敵が躍り込んできそうな勢いだ。どれくらい盾の後ろに隠れていたかわからないが、後ろからデクリウス小隊長の声がした。  「出るぞ!」  デクリウス小隊長が右隣に割り込んできた。私は少し後ろへ下がり、右を向いて道を開けた。デクリウス小隊長は勢いよく盾を突き出して敵を突き飛ばし、私の方を向いて叫んだ。  「下がれ!」  助かった。私の盾はひびだらけでいつ壊れても不思議ではない。命令に従い最後尾の同僚プブリウスの後ろへ退いた。しばらくすると、デクリウス小隊長が下がってきた。私の肩を叩くと、剣を差し出して言った。  「もう落とすなよ。」  ありがたい、私の剣を拾ってきてくれた。剣を鞘に戻して左胸に右拳をついて敬礼し、デクリウス小隊長に感謝した。  「ありがとうございます。以後気を付けます。」  デクリウス小隊長は私の肩を何度か叩いて言った。  「気にするな。」  私は再度敬礼した。デクリウス小隊長は前へ進み、最前列で戦っている同僚のガイウスの後列に着いた。ラッパの音が鳴り響き、あちこちから命令を伝える叫び声がした。  「前進!」「前進!」「前進!」  しかし、アクイラ中隊長の声はしない。声がする場所も我が中隊から離れている。仲間たちも動こうとしない。となれば前進命令は我が中隊に対するものではない。アクイラ中隊長の命令が聞こえた。  「隊列開け!」  私は左隣の第5小隊の兵の後ろへ回り、占めていた場所を開けた。私の右隣にいた第3小隊の兵は第2小隊の兵の後ろに回り、2列分の通路ができた。背後から足音が響いた。後方に控えていた部隊が前進して来たようだ。私の両脇を一列縦隊で兵士たちが整然と駆け抜けていく。前方に出た部隊は隊列を整え、前進を始めた。大隊旗からすると第一大隊だ。温存していた最精鋭を最後の一撃に使うのだろう。第一大隊は最初は歩き、早歩きから駆け足に入った。駆け足で離れていくと、アクイラ中隊長が叫ぶ。  「右向け右!」  皆一斉に右を向いた。中隊全体が90度向きを変えたところで再び命令が下された。  「行進!」  我が中隊は右端のアクイラ中隊長を先頭にして行進を開始した。先頭から順番に右へ90度向きを変えながら、隊列を整えていく。後ろに下がり、予備に回るようだ。後方へ下がる途中、入れ替わりに騎兵隊が走り抜けた。敵が完全に崩れて追撃戦へ移ったのかもしれない。ならば我が中隊が再度戦いに参加することはないだろう。戦いは終わりだ。後は残敵を掃討して戦利品を集めるだけだ。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!