14.暗転

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14.暗転

 ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスと、マルクス・コッケイウス・ネルウァが執政官、皇帝ウェスパシアヌス2年目の年(西暦71年)。  モグンティアクムに来てから約1年が過ぎ、駐屯地は落ち着き、訓練と巡回の繰り返しの日々が戻ってきた。ブリタニアへ残してきたと思っていた精霊も憑いて来ていた。落ち着くに伴い、またブランウェンの夢を見るようになった。内容は以前と全く同じ。アダは夢に出てこない。出てこないということは、彼女を守護する精霊は彼女の元にいるはず。だから無事に違いないが、不安は募るばかりだ。手紙の返事はなく、休暇も許可されない。  家族の心配をしているのは私だけではない。我が軍団ではカルヌントゥムに残してきた兵士の家族が問題になっていた。出陣から2年以上、家族を恋しがる兵が増え、脱走騒ぎも起きている。家族と言っても正式の家族ではなく、内縁の妻や私生児だ。軍団員に正式な結婚は許されない。軍団金庫に預けた金を心配する兵も多い。金を手元に置くのに不安がある兵は給与を軍団金庫に預けている。普通であれば軍団と共に移動するのだが、2年前の出動が急で最低限の物資で出陣したため、金庫は置いてきた。他にも多くの物資を置いてきていた。  軍団長はカルヌントゥム駐屯地を管轄するパンノニア総督へ物資の返還を要求した。内戦の余波からか、我が軍団に纏わる噂のおかげかパンノニア総督は簡単に要求を飲んだ。物資は駐屯地に保管してあるが、一部は現在駐留している第7「双子」軍団と第15「アポロ」軍団の再編成に使用した。兵士の私物と軍団金庫は手を付けずに保管してある。という回答だ。  物資の輸送計画が組まれ、輸送隊の護衛に我が大隊が選ばれた。輸送隊には希望者を充てることになり、家族を残してきた多くが希望し、大隊が作れるほどの人数が集まった。輸送計画は4か月かけて行われる。往復に3か月、輸送準備に1か月、それに特別休暇が1週間ついた。2年も家族から離れて戦い続けた報酬だろう。残る兵にも交代で1週間の特別休暇が与えらる。  輸送隊の護衛に任命されたのは幸運だった。第15軍団が駐留しているのもありがたい。アダの叔父から何か情報を得られるかもしれない。  約一ヵ月かけて輸送隊はカルヌントゥムに到着した。到着から1週間は物資引き渡しの手続きや宿営地の整備に追われた。物資は保管というより、放置された状態だ。昔の駐屯地には第7軍団が駐留し、我が軍団の物資をより分ける作業に手間取った。物資の仕分けを完了し、後は積み込むだけとなったところで特別休暇となった。  特別休暇初日にエノクの店へ行ってみたが、そこにはパン屋があった。店の主人に訊ねると、前の持ち主はどこかへ引っ越し、行先は知らないと言う。洞窟へ行こうかとも思ったが、まずは第15軍団のアダの叔父グナエウスを訪ねることにした。  第15軍団本部に行き、数人の軍団副官に百人隊長グナエウスの居所を聞いたが、第15軍団にはグナエウスという名の百人隊長が6人もいるという。現在いる場所も本部から離れた見張り台や前哨陣地などで、すぐには会えそうにない。エノクという名の身内がいる者はいないかと聞いたが、誰も知らなかった。明日の朝、洞窟に行くことにして宿舎へ戻った。  宿舎に戻ると、私に客が来ていた。私の百人隊副官マルクス・アセリウスが対応していた。客は私の父と同じくらいの歳に見える。白髪で長身、私より背が高い。客は私を見るとゆっくりと立ち上がって言った。  「第15軍団第2大隊長のグナエウス・バルブティウス先任百人隊長だ。エノクの義兄で、アダの叔父だ。君がティトゥス君だね。」  私は右拳を左胸に当てて敬礼をして答えた。  「はい。第14軍団第3大隊3中隊長ティトゥス・カエリウス百人隊長です。」  グナエウスは手を出し握手を求めた。私は幾分緊張気味に手を出し握手をすると、グナエウスは座るように促した。机を挟んでグナエウスの正面に座ると、グナエウスが話し始めた。  「君のことはエノクから聞いてるよ。アダの婚約者としては申し分ないな。」  私は頭を少し下げて答えた。  「ありがとうございます。それで、エノク殿とアダの消息はご存じないでしょうか?」  グナエウスは私の様子をしばらく眺めてから幾分悲しそうな顔つきになり、話し始めた。  エノクもアダも私が死んだと思っていた。私の上官が二人に私が死んだと伝えたせいだ。その後、その上官とアダは行方をくらました。アダはエノクにも行き先を伝えていない。グナエウスが数か月前にカルヌントゥムへ来た時には、エノクは歩けないほどに衰弱していた。グナエウスは義弟の体を案じ、軍団直属の病院に入れて治療したが助けられなかった。グナエウスは第14軍団の輸送隊が来ると聞き、私のことを軍団員に訊ねようと思い、ここへ来たら、私が生きていることを知り驚いたという。問題の上官の名はデクリウスだ。  グナエウスの話に私は混乱した。デクリウス中隊長が嘘をつくなどあり得るのだろうか。私はデクリウスを信頼していた。上官として、友人として、そしてなにより第14軍団の同僚として。  私は歯を噛締め、肘を机に着き、頭を抱えた。私が混乱から抜け出して頭を上げると、グナエウスは説明を続けた。アダの行方を調べていたところ、この地にキリスト教徒と名乗る一団が来ていることを知り、そこにアダとデクリウスが出入りしていることを突き止めた。今夜、キリスト教に詳しい者と会うから一緒に会って欲しいという。私は喜んで承諾した。アダと会って私の無事を伝えたい、デクリウスに真相を確かめたい、その思いが心を強く掴んだ。同時に、ブランウェンの時と同じことが起きるのではないかと、恐怖も広がっていた。  最後に私はグナエウスに訊ねた。  「アダとエノク、デクリウス中隊長にも手紙を出したのですが、何かご存知ありませんか?」  グナエウスは首を少しかしげて答えた。  「エノクからは何も聞いていないな。軍団員の手紙なら軍団を通してくるから、調べればわかるかもしれんな。そうだな。調べてみよう。」  私は感謝して頭を下げて答えた。  「ありがとうございます。よろしくお願いします。」  私はグナエウスと握手をし、駐屯地の門まで見送った。  夜になり、指定された居酒屋を目指した。居酒屋の手前の曲がり角で、ブランウェンが両手を広げて私の前に立ちはだかった。悲しげな顔をしている。私はしばらく身動きが取れなくなったが、目をつぶり無理に歩みを進めた。目を開けると、ブランウェンは消えていた。やはり、同じことが起きる。恐怖が高まってきたが、アダに会いたい気持ちも同じくらい高まっていた。アダに会うには進むしかない。  居酒屋に入ると、一番奥の席にグナエウスがいた。他にフードで顔を隠した二人の人物がいる。グナエウスは私を見ると、手を振って来るように促した。私が席に着くと、グナエウスは店主に奥の部屋を使うと言って、私と他の2人を奥の部屋へ導いた。  部屋に入ると、後から店主が来て、食事と酒を置いて行った。店主が部屋を出た後で二人がフードを取った。一人は見覚えがある。以前ブリタニアで私の上官だった第14軍団のマルクス・ウィニキウス元軍団長だ。私は思わず立ち上がり敬礼して言った。  「マルクス軍団長。第14軍団第3大隊3中隊長ティトゥス・カエリウス百人隊長です。十年前のブリタニアの戦いで閣下の下で戦いました。」  マルクス元軍団長は少し驚いた様子で答えた。  「そうか。あの時の兵の一人か。よくぞ生き残ったな。昔の部下に会えるなんて俺もうれしいぞ。」  私が再度敬礼すると、マルクス元軍団長は立ち上がり、私の右腕を軽くたたいて、座るように促した。そして、最後の一人を紹介してくれた。  「こちらはキリスト教の専門家、漁夫王ブロン殿だ。王と言っても本物の王ではないぞ。腕の良い漁師という意味だ。」 キリスト教の名は聞いたことがある。ローマに火を放ち、皇帝ネロに罪を擦り付けた邪教集団だ。我が軍団ではそういう話になっている。アダとエノクからも聞いたことがあるが、邪教集団とは思えなかった。指導者は変わったやり方で病人を直すユダヤの医者で預言者とか言われている。たしか、ユダヤ総督の命令で処刑されたはずだ。  「キリスト教の話はアダとエノクから聞いたことがあります。キリストは預言者でしたね。ただ、我が軍団でその話をするのは得策ではないと思います。キリスト教徒の処刑を皇帝ネロの偉業の一つと賛美している者が多いですから。」  グナエウスが笑みを浮かべて言った。  「気を付けるとしよう。信者にも言っておくよ。それから、少し修正するとイエス・キリストは預言者ではなく神の子だ。私も信者なんだよ。エノクとアダもな。」  マルクス元軍団長はまずいことを言ったなといった感じで困った顔をした。突然、グナエウスは何か思い出したような仕草をし、脇に置いてあった袋をまさぐり木簡の束を出して言った。  「君に頼まれていた手紙だが、これかね?」  束を受け取り、確認すると私が出した手紙が全てあった。私は頷き言った。  「私が出した手紙が全てあります。」  グナエウスは残念そうな表情で答えた。  「そうか。第14軍団の家族宛の手紙の中にあったよ。軍団員の家族宛の手紙は家族が取りに来なければそのままになる。おそらく、エノクもアダも君が死んだと思い、取りにいかなかったのだろう。」  束を見つめていると、グナエウスが話を始めた。  漁夫王ブロンはキリストの弟子アリマタヤのヨセフの義弟で、キリストが処刑された時に、傷口から流れ出る血を受けたカップをブリタニアへ運ぶ途中だという。彼らはそのカップを「聖杯」と呼んでいた。漁夫王ブロンをここまで案内してきたのが、グナエウスだ。ここから先の案内人としてマルクス元軍団長が来た。第15軍団にもキリスト教徒が多数いる。ユダヤ戦争を通し、キリスト教と出会い入信した者たちだ。  その中に、キリストの言葉を曲解した者がいた。グナエウスは彼らを「野蛮なる者」とか、「ボルボル」と呼び、地元では「奇しき闇の民」と呼ばれていると説明した。2年前にカルヌントゥムへ戻った第15軍団の退役兵が教団を作り、数か月前に移動してきた第15軍団の信者と家族が合流して一気に規模が拡大した。  キリスト教徒は魂の高潔を目指し、肉欲から離れた生活をする。体が汚れると、魂まで汚れると考える。しかし、「ボルボル」は体を幾ら汚そうと魂は影響を受けない、むしろ積極的に体を汚して魂の高潔さを証明すべきだと考えている。だから、乱交や食人など、ローマが厳しく罰する犯罪行為に手を染める。特に酷いのは産まれたばかりの嬰児を産んだ母に食させる儀式だ。子供は母から分離された母の一部だから、母の体に戻すのが一番だという。ブリタニアにも食人の風習があったが、ここまで酷いのは聞いたことがない。  私はアダから聞いた話を思い出し、思わず口にしてしまった。  「人の血を飲み、人の肉を食え。」  私の言葉に3人は驚いた。それまで黙っていた漁夫王ブロンが口を開いた。  「意味はご存知ですか?」  私はエノクとのやり取りを思い出して言った。  「パンとワインを食することと聞いています。」  漁夫王ブロンは微笑み頷いて言った。  「意味はそれだけではないのですが、だいたいその通りです。貴方もパンとワインを食しましたか?」  私はわけもわからず、頷いて答えた。  「はい。エノク殿からパンとワインを頂きました。」  漁夫王ブロンは空に向かって十字を切って言った。  「貴方に神の祝福がありますように。」  そういうと、両手を組んでうつむき、何かに祈っていた。グナエウスが笑顔で私の肩を叩き言った。  「君なら信頼できる。くれぐれもここで会った人や聞いた話は他に漏らさんでくれよ。」  私は敬礼して答えた。  「はい。決して言いません。第14軍団の名誉にかけて。」  グナエウスはリラックスした感じになり、アダの行方について話し出した。  アダとデクリウスは「ボルボル」と行動を共にして山中に潜んでいる。「ボルボル」は山腹の洞窟で儀式を行う。グナエウスは信者数人を捕らえて次の儀式の日を聞き出すのに成功した。食人の儀式が行われているのなら、ローマでは違法である。邪教取り締まりとして堂々と軍を動かせる。私はアダに会えるかもしれないと思い、参加を希望した。  マルクス元軍団長は我が大隊がモグンティアクムへ戻る際に同道する許可を取るため口添えを頼んできた。私は口添えがなくても我が大隊は元軍団長を喜んで迎えるだろうと確約した。ブリタニアの戦いは我が軍団の栄光の頂点だ。その元軍団長が来るとなれば喜ばない者はいない。  後は飲み食いをしながら自身の近況を語り合った。マルクス元軍団長はローマに戻った後で北の彼方のルギイ族の族長の娘カリーナと結婚した。ローマに人質として滞在していたのを見染めたが、結婚に至るには苦労したそうだ。幸いなことにカリーナは人質生活が長かったせいで、ラテン語が日常語になり、出身部族の言葉を殆ど使えなくなっていたから、言葉の問題はなかった。現在はシキリア(現在のシチリア島)で家族と暮らしている。 リギイ族はドナウ河付近に出没するウェネドとか呼ばれる人々の系統に属する部族のようだ。30年位前に北の軍が到来した時、その中にリギイ族の軍もいたと聞く。私は試しに、マルクス元軍団長に精霊のレスニー・パナとヴォドニー・パガについて訊ねたが、何も知らなかった。  グナエウスはユダヤで皇帝ウェスパシアヌスと息子のティトゥスの下で激しい戦いをくぐり抜けた。期間の長さと戦死者を考えると、ブリタニアよりも厳しい戦いだ。その厳しさから「ボルボル」に走った兵が多数出たのかもしれないと、グナエウスは考えていた。 漁夫王ブロンは義兄アリマタヤのヨセフの指示でブリタニアのアヴァロンへ行く途上だ。皇帝ネロの治世にアリマタヤのヨセフはブリタニアのアヴァロンへ旅し、「聖杯」を保管するのに理想的な場所だと考えた。それで、漁夫王ブロンを聖杯の守護者に指名して送り出したそうだ。 マルクス元軍団長によるとアヴァロンはイスカ・ドゥムノニオルム(現在のエクセター)の北にある大湿地帯のどこかにある「林檎の島」と呼ばれる処だ。モナ島を追われたドルイド僧が集う隠れ家も恐らくそこにあり、アリマタヤのヨセフが築いたキリスト教の教会の住人と共に暮らしていると考えられる。ローマ当局が探しているから絶対にこの話を漏らさないように念押しされた。 私は軍団での生活やアダとの思い出を話し、ブリタニアの話はしなかった。人に話せるような話でもないし、正気を保ったまま話す自信もなかった。
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