17.家族

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17.家族

 ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスと、その息子のティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスが執政官、皇帝ウェスパシアヌス3年目の年(西暦72年)。  ウェレダを買って一年、最初の子供が生まれた。女の子だ。跡取りの男の子を期待してたが、なぜか残念には思わなかった。愛おしく思った。しかし、愛おしく思ってはならない、そのような考えが罪悪感と共に湧きあがる。父の跡を継ぐべく、跡取りを作らなければならない。それが私の責務だ。余計なものは持つべきではない。いつかウェレダも娘も売らなければならない。二人を売るとした義務感のような思考と、愛おしい感情が衝突して混乱した  生まれたばかりの娘を抱きながら考えに浸っていると、肩を叩かれた。振り向くと、産婆が険しい顔をして立っていた。  「嬉しくないのかね?」  私はかなり険しい表情で娘を見つめていたようだ。ウェレダに声もかけていない。無理に笑顔を作り、ウェレダのところへ行き、話しかけた。  「名前はアウリニアにしよう。ゲルマニアの高名な巫女の名だ。アウリニアだよ。わかるかい、アウリニアだ。」  ウェレダは微笑み、手元の粘土板に「Auraria」と書いた。私は粘土板を見て微笑み、ウェレダの髪を撫で粘土板を指さして言った。  「これは、アウラリア。君の髪の色を表す言葉だよ。こう書くんだ。」  粘土板の上に正しい字を書いた。「Aurinia」。ウェレダは嬉しそうに粘土板に何度も「Aurinia」と書いていた。  不意にウェレダが顔を上げ、何かに話かけた。その目線の先に目を向けると、ブランウェンが満面の笑みでウェレダに両手を差し出していた。私は一瞬目がくらんで倒れそうになった。それを見た産婆が慌てて赤ん坊を私の腕から取り上げた。  「旦那様どうしたんだ。赤ん坊を抱いたままじゃ、あぶねえだ。」  私は頭を押さえ、ウェレダと産婆の腕の中のアウリニアを見た。ブランウェンは既にいない。アウリニアをあやしながら産婆がウェレダの方を見て言った。  「奥様には何が見えてるんですかね。壁に話しかけるなんてね。」  私は確信した。ウェレダはブランウェン、或いはブランウェンの姿をした精霊バンシーに守られている。安心感が湧くと同時に、将来に対する不安も大きくなった。いつかは売らなければならない。それが父の教え、私の責務だ。ブランウェンやアダの二の前は御免だ。精霊とはいえバンシーは泣く以外には何もできない。邪魔などできるはずもない。  子育てを助けるために家政婦を雇った。名はリネットといい、3人の子供を抱えた未亡人で、ウェレダが懐いている町のご婦人の一人だ。ブリタニアのイケニ族出身なのも選んだ理由だ。リネットの夫は第2軍団の兵士で、ブーディカの乱で身寄りを失ったリネットを哀れに思い妻として迎えた。その後、第5軍団へ異動になり、内戦で戦死した。 それを聞き、リネットの身内と夫を殺したのは自分かもしれないと感じだ。もしかすると罪滅ぼしをしたい、との意識が働いたのかもしれない。それとも、ブランウェンの姿をしたバンシーの指金だったのか。  しばらくするとリネットがウェレダと会話しているのを見かけるようになった。ウェレダがリネットの方を向いて喉から何か音を出し、リネットが相槌を打ちながら聞いている。不思議に思いリネットに訊ねると、リネットは笑いながら答えた。  「奥様は精霊様を通して話ができるのですよ。」  私が納得できないでいると、リネットが訊ねてきた。  「旦那様にも精霊様が見えてるのでは?」  今までブランウェンの姿を見る度に幻か、バンシーとかのブリタニアから憑いてきた精霊か判断できずにいたが、あれは精霊か。私はリネットに訊ねてみた。  「精霊だとすると何だと思う。やはり、泣き女のバンシーか?」  リネットは驚いた顔をして言った。  「泣くしかできないバンシーに守護などできませんよ。もっとお強い森の神コキディウス様の精霊ですよ。ローマではシルウァヌス様と呼ぶのかしらね。」  疑問を感じて訊ねた。  「ブリタニアの森の神コキディウスがこんな遠方まで出向いてくるのか?」  リネットは微笑み、ブリタニアのある北の方を向いて言った。  「森は繋がってるのですよ。距離とか時間なんて関係ないんです。それに場所によって呼び名が違うだけでみんな同じ精霊様ですよ。」  私は考え込んだ。リネットは一礼すると、仕事へ戻った。リネットが去った後にブランウェンが微笑みを湛え、両手を前に伸ばし、私を迎えるように立っていた。私は驚き、反射的に目を深くつぶり頭を振った。目を開けるとブランウェンの姿はいつものように消えていた。何が言いたい。何をして欲しい。私は精霊の意図を思い、困惑した。  娘が生まれた翌年に息子が生まれた。喜びよりも肩の荷が下りた感じだ。ようやく責務を一つ果たした。後は息子を無事に育て上げるだけ。よき兵士として私の持つすべてを授け、第14軍団の兵士として旅立たせる。それで私の責務もウェレダの役割も終わりだ。終わったらどうするか、ブランウェンやアダ、父やスィールのもとへ旅立つのも悪くない。  ベットの傍らでリネットがウェレダに語り掛けている。ブランウェンもウェレダの傍らに立ち、ウェレダの頭を撫でていた。リネットは気が付いていないようだ。  私は息子を抱え、3人を眺めていた。リネットが私の方を振り向くと、怪訝そうな表情で言った。  「旦那さま。そんな顔して嬉しくないんですか?」  息子に対してそんな顔をしていたのかと、驚いた。気を取り直し、ウェレダの傍らに近づいて言った。  「息子の名はガイウスだ。僕のお爺さんの名だよ。ガイウス・カエリウスがこの子の名だ。」  ウェレダは娘の時と同じように何度も粘土板に息子の名を書いて喜んでいた。今度は間違えはない。  ガイウスが生まれた翌年にも子供が生まれたが、生まれて3日で死んだ。ウェレダの悲しみ方は尋常ではなかった。数日に渡って死んだ子を抱いて泣き続けていた。ガイウスの後に5人の子が生まれたが、1年生きた子はいなかった。子が死ぬ時にはいつもブランウェンがウェレダの傍で見守っていた。リネットも3人の子を手に入れるまでに6人失ったそうだ。乳飲み子が生き残る可能性は小さい。子を産んで死ぬ母も多い。ウェレダが生きているだけましななのかもしれない。 5人はガイウスとアウリニアの代わりに精霊へ捧げられたのかもしれない。ブリタニアの精霊は人の子を求め、精霊の子や木切れで作った偽物と、子を取り替える。取り替えられた偽物の子は乳飲み子の内に死ぬ。5人は精霊の国で生きているのかもしれない。だとしたら連れ去ったのはブランウェンの姿をした精霊だろう。 5人の子を失ったが、戦いもなく穏やかな日々が続いた。以前のように激務や戦いを望む気持ちは消え失せていた。ローマも皇帝ウェスパシアヌスの下で平和な時代が続いた。我が軍団の出番はない。しかし、平和だと言え、私は父の教えに従い、よき兵士となるべく努力を続けた。家を砦のように整備し、武器を作り、薬草を蓄え、軍医や教師、鍛冶屋などに学び知識を蓄えた。軍団兵や剣闘士などを相手にして剣術も鍛えた。私にとって父の教えは絶対だ。  ガイウスの成長に合わせ、様々なことを教えた。それに伴いウェレダが不安な表情で私を見つめることが増えた。リネットに言わせれば私がガイウスに構い過ぎてウェレダとアウリニアを顧みないのが悪いという。ブランウェンも同じ意見なのか、私に厳しい視線を送る。  私にはどうでもいいことだ。優先すべきはガイウスをよき兵士として育て上げる私の責務だ。ガイウスもウェレダに似て飲み込みが早いし、記憶力もよい。それにウェレダと会話ができるようだ。アウリニアもウェレダと談笑することがある。我が家でウェレダと言葉を交わせないのは私だけだ。理由はわからない。ウェレダは買った時から変わらず、喉から言葉にならない音を出すだけ。私と会話するときは粘土板を使うしかない。  アウリニアが12歳になると、私の部下だったマルクス・アセリウス百人隊長が息子セクストスの妻にアウリニアが欲しいと申し入れてきた。セクストスの年齢は14歳で成人したばかりだ。アウリニアが誰の妻になろうと私には関係ない。しかし、そう考えなければならないとする思考と共に、娘には幸せになって欲しい、できるなら軍人の妻にはならないでほしいとの思いが生まれた。  セクストスは我が家によく来てアウリニアと遊んでいた。アウリニアはセクストスを兄と呼んでいた。木剣で遊んでいる様子は私がブランウェンと遊んでいた時を彷彿とさせる。2人も結婚には同意している。私はマルクスにアウリニアを無償で売り、結婚させるのならマルクスが解放の手続きをするように伝えた。マルクスは私と違い、「陣営生まれ」ではなくローマ市民の軍団兵だから解放の手続きを取ることができる。  アウリニアの行く末を全く考えていなかった。いずれ売るだろうとしか思いが至らなかった。娘の顔を見ると愛おしい感情が湧くが、同時に罪悪感が湧き、直視できない。そのせいでウェレダには悲しい思いをさせ、リネットには怒られ、ブランウェンには厳しい視線を送られた。これで重荷が一つ解消した。セクストスやマルクスなら、私よりアウリニアを大切にしてくれるだろう。
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