18.自立

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18.自立

 ティトゥウス・アウレリウス・フルウィウスと、マルクス・アシニウス・アトラティヌスが執政官の年、皇帝ドミティアヌス8年目の年(西暦89年)。  内戦以来、もう20年近く戦いなく過ごした。皇帝ウェスパシアヌスの跡を息子のティトゥスが継ぎ、その跡をティトゥスの弟のドミディアヌスが継いだ。我が軍団が「ネロ軍団」と呼ばれなくなり、だいぶたつ。皇帝ネロの名はもう遥か過去の彼方だ。ローマ最強の名声も霞んでる。  2年前にダキアで大きな戦いが起こり、第5軍団が壊滅した。20年前に私が敵手として戦い、リネットの夫のいた軍団だ。去年、復讐戦が行われて我が軍の勝利で決着がついた。復讐戦に我が軍団も参加するかもしれないと聞いた時、家族を残して行きたくなかった。愛する者を残して行くと必ず失う。恐怖が心を覆った。出動の可能性がなくなった時、安堵した。父の顔が頭に浮かび酷く恥じた。心が弱い方に振れている。  年初めにアクイラ主席百人隊長が退役した。それに伴い、私が主席百人隊長に昇進し、第1大隊長に就任した。  アクイラ大隊長はイタリアのクルシウムにある妻の実家付近に農場を買った。そこへ引退するという。2人の息子の内、長男は軍団勤務を志願し、現在はブリタニアの第9軍団にいる。もう一人の息子は母を手伝い農場で働いている。  アクイラ大隊長が退役してすぐに軍団へ出動準備の命令が下った。ゲルマニア人の襲来とか、どこかの属州が反乱を起こしたとかの噂は聞いていない。皇帝ドミティアヌスの苛烈な政治で多くのローマ貴族が処刑され、不満が高まっている、との噂は流れてくるが、ここでの影響はない。不正の摘発が増え、住民や兵士からは支持する声すら聞こえる。総督や軍団副官のようなローマ貴族出の上層の人々にとっては戦々恐々な状況なんだろう。  ゲルマニア・スペリオル総督ルキウス・アントニヌス・サトゥルニヌスが皇帝を宣言し、ゲルマニア・スペリオルに駐留する4個軍団に対し、ローマへの進軍を指示した。モグンティアクムには我が軍団と第21軍団が駐留している。両軍団は動揺して混乱し、出動どころではなくなった。更にライン河の向こうのゲルマニア人をローマ領内に導き、共にローマへ進軍するとした計画が知れるに従い、混乱は拡大した。  総督に従い反乱に参加するかいなかで、軍団会議が開かれた。軍団幹部の皇帝ドミティアヌスに対する評価は良くない。ダキアでの戦いも皇帝の余計な横槍で敗北したと噂されていた。私は戦いに参加したくなかった。家族と別れたくなかった。私は皇帝ネロ死後の混乱を引き合いに出し、参加反対を主張した。結局、態度を鮮明にせずに様子を見ると決まった。第21軍団は消極的参加と決まり、総督と共に出陣した。我が軍団の帝国最強の神話はまだ生きていたようで、出陣を無理強いされることはなかった。  ゲルマニア・スペリオルの軍がもたついている内に、隣の属州ゲルマニア・インフェリオル総督ルキウス・アッピウス・マキシムス率いる軍が到来した。サトゥルニヌス総督は軍団を当てにせず、ゲルマニア人の援軍と合流を図ろうとした。戦いの直前にライン河を渡ろうとしていたゲルマニア人の大軍は氷が崩壊して水没した。第21軍団は戦いを放棄して反乱は失敗し、サトゥルニヌス総督は処刑されてローマへ首が送られた。第21軍団は反乱参加を咎められ、パンノニアのカルヌントゥムへの移動を命じられた。  この反乱騒ぎを機に退役を決意した。今回、我が軍団はモグンティアクムに留まり、私は家族の元に留まることができた。しかし、いつまた何かの戦いに巻き込まれ、移動を余儀なくされるか分からない。家族から一時でも離れたら、全て失いそうで恐ろしい。軍団に入って31年経ち、規定の25年は過ぎた。いつ退役しても問題ない。このまま軍団に留まれば屯営長に出世できるかもしれないが、そんな役職に意味はない。それに今年、息子のガイウスが16歳になり、軍団に入隊する。  退役を家族に伝えると、リネットは驚いたが、ウェレダは喜んでいた。私が屯営長になるまで辞めないだろうと思っていたガイウスは複雑な表情をしている。私はガイウスの頭を撫でて言った。  「次はお前の番だ。俺と、お爺ちゃんが成し遂げられなかったことをやり遂げてくれ。」  ガイウスは私の顔を見上げると笑顔で大きく頷いて言った。  「屯営長になって父さんと母さんに大きな砦をプレゼントするよ。」  私は微笑み、ガイウスの頭を強く撫でた。  金に不自由することはない。これまでの給与や賞与がかなり貯まっていたし、退職金も出た。皇帝ドミティアヌスが新たな反乱を恐れて軍団の給与や退職金を大幅に増額し、賞与も出た。軍団表彰として受けた銀のカップや銀の小盾、金の冠などもある。ウェレダの稼ぎも加えたら50万セステルティウスはあるだろう。ちょっとした富豪だ。ローマ市民権とローマ騎士の称号も受けた。ローマ騎士の称号をもって官吏として働く道もある。財産は十分あるのだから、農場や工場を営むことも可能だろう。 しかし、ウェレダや子供たちの喜ぶ様子を見ている内に、義務感というか、或いは漠然とした罪悪感のような感情が噴出してきた。ここで家族と共に穏やかな生活を続ける道もあるかもしれない。しかし、それは私の責務とは相いれないのでは。ブランウェン、父、アダ、スィールとその一族、多くの人達を犠牲にしてここまで来たのは、父から受け継いだものを守るためではなかったのか。父から受け継いだ知識の多くはガイウスに授け、第14軍団の新たな兵士として育て上げた。祖父から父、私へと受け継がれたものはガイウスへ引き継いだ。私の責務は終わった。 心が弱い方へと流されている。恐怖心も大きくなる。父の二の前を踏むかもしれない。ここでガイウスを失うわけにはいかない。もし、失うにしてもそれを目にしたくはない。  ガイウスが入隊する前にウェレダを売ることにした。ウェレダだけでなく私も父の所へ行ってもいい頃だ。ウェレダを気に入っているブランウェン、或いは森の神コキディウスは私を許しはしないだろう。ブランウェンの元へ行くのは無理だ。アダの神の領域には地獄だろうが天国だろうと、キリスト教徒以外は入れそうにない。ローマの冥界の王プルートの処なら先に行った父や軍団の仲間にも会えるかもしれない。  ガイウスが教師の所へ行き不在の日に、知り合いのギリシア人の商人グラウコスの処へウェレダを連れて行った。グラウコスは奴隷を商ってはいなかったが、顔が広く信頼がおける商人だ。半年位前にモグンティアクムへ商売の拠点を作るためにやって来た。近くアテナイへ戻るという。この町からいなくなるのも私にとって都合がよい。 ウェレダはいまだ容姿が神秘的で、彫り物などの技量を持つ故に高値が付くとグラウコスは言い、五千セステルティウスの額を提示した。私はすぐに承諾して金を受け取り、ウェレダを引き渡した。グラウコスは何度も本気なのかと尋ね、思い留まるように勧めた。ポンペイで噴火に巻き込まれて被災した際に出会った少女の話まで持ち出して説得を試みてきた。しかし、これが私の責務だと突っぱねた。もう決めたことだからと。  不思議とウェレダは反抗もせず素直に従った。少しの間、私の元を離れるだけとでも考えているのだろうか。グラウコスの元を離れる際、ウェレダの傍にブランウェンが立ちウェレダを案じてた。私はブランウェンを見ないようにしてその場を立ち去った。  翌日、ガイウスがウェレダを連れ帰ってきた。食卓で座っていた私の前にガイウスが立つと、後ろにはブランウェンが現れた。ブランウェンの表情は怒りでも悲しみでもない、憐れみを表しているように見えた。ウェレダは今にも泣きだしそうな不安な表情をしている。何か小さく声を出している。ガイウスは怒りを露に訊ねてきた。  「父さんなぜです?」  グラウコスが余計なことをしたようだ。私はガイウスを見据えて言った。  「不要だからだ。」  ガイウスも負けじと私を見据えて言った。  「不要って何ですか!父さんがいらないなら僕が買います。母さんを売るなんて信じられない!」  ガイウスは吐き捨てるように言うと、怒りに肩を震わせていた。私はガイウスに訊ねた。  「誰に聞いた?」  ガイウスは目に涙を浮かべて答えた。  「グラウコスさんが教えてくれたんです。それで僕のお金で買い戻したんです。足りない分はマルクス叔父さんから借りました。叔父さんも信じられないって怒ってました。」  ガイウスの声に驚いたのか、ウェレダが大声で泣き出した。私はゆっりと目を閉じて言った。  「そうか。」  ガイウスはウェレダを連れて出て行った。 目を開けるとブランウェンが私を見つめていた。もう一度、幻を追い払おうように強く目を閉じ、頭を振り、再び目を開いたが、ブランウェンは消えなかった。私はゆっくりと言った。 「ウェレダを私に引き合わせたのは君か?」 ブランウェンは何か企んでいるような含み笑いをして答えた。 「そうよ。いい子でしょ。」 やはり、復活の大鍋で作られた人ならざる人か、だから言葉を失っていたのだな。私は憮然とし、警戒するように尋ねた。 「5人の子を連れ去ったのか?」 ブランウェンは幾分悲し気な表情で答えた。 「兄様が望まないことはしないよ。」 私が5人の子を望まなかったということか、それとも連れ去らなかったのか、答えの意味を掴みかねた。しかし、それ以上詮索する意味はなさそうだ。もし連れ去ったとしたら、それは私が望んだこと。ガイウスが残っている以上、私の責務に影響はない。ブランウェンの目を見つめてしばらく間をおいてから訊ねた。 「何が望みだ?」 ブランウェンの表情が優しい微笑みに変わった。彼女は急に近づき顔を寄せ、耳元で囁いた。 「兄様が望むものを。」 ブランウェンは唇を私の唇に重ねると吸い込まれるように消え去った。ブランウェンのお膳立てで望みを叶えたということか、全ては父とブランウェンの手の上か。もう何も言うことはない。後はただ責務を終えるだけ。ブランウェンも邪魔しないだろう。それとも単に、幻相手に自問自答しただけかもしれない。幻だろうと、本物であろうと同じこと。 ガイウスもウェレダも帰らなかった。数日後にマルクス百人隊長からガイウスが第14軍団に入隊したことを聞いた。ウェレダはアウリニアが預かっている。ウェレダは私に売られたことを理解し、自身に何か非があったのかと、周囲に訊ねては泣き明かしているという。  ウェレダには可哀そうだが、会う必要も資格も私にはない。全て私の問題だ。これで父に対する責務は終わった。これ以上、苦しむ必要もない。今から考えると何かが間違っていた。自分の意思を持てなかったことか、母を救おうともしなかったことか、それを考すらできなかったことか、愛する者を次々と手にかけたことか、ウェレダを売り払ったことか、考えれば切りがない。  今にして思うと、ブランウェンは最高の贈り物をくれた。私には出来過ぎた息子だ。あれだけの息子を授かれたのはウェレダがいればこそ。やはり、ブランウェンは幻ではなく精霊、いや、あれはブランウェンの魂そのもの、精霊ではない。許されてブランウェンの元へ行けたら、いかように感謝すればよいのだろう。最後の望みを言えば、息子と娘、そしてウェレダの行く末を見守って欲しい。 私は最後まで自分で考えたり、判断できなかったようだ。よき兵士は何でもできなければならない。当然のごとく自分で判断基準を作り、判断しなければならない。私は父に依存し切っていた。父に依存し切り、父の期待に応えることができなかった。周囲の人々に配慮するなど到底できる話ではない。自分で判断し、行動に移すことができた息子は私とは違う。
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