19.息子

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19.息子

 マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥスと、クゥイントゥス・アルティクレイウス・パエトゥスが執政官、皇帝トラヤヌス4年目の年(西暦101年)。  私の名はガイウス・カエリウス、第14「軍神マルス常勝・双子」軍団第3大隊3中隊長、通称「少年隊」の隊長だ。以前に父が所属し、指揮した部隊だ。  父はティトゥス・カエリウス、第14軍団第1大隊長、主席百人隊長まで昇進し、退役した。数多くの軍団表彰を受け、軍団ではいまだに伝説の人でブリタニアのヘラクレス、マルスの化身、チャンピオン、大隊の救世主、神罰の代行者、無敵の剣闘士等々、多くの通り名で呼ばれている。ブリタニアの反乱での勇戦ぶりや、剣術大会で優勝した話、内乱で大隊を救った武勇談、邪教徒取り締まりでの活躍など逸話も多く、百人以上の敵を倒したと噂されている。私が入隊した年に自ら手首を切り、亡くなった。なぜそのようなことをしたのか、わからない。母を売り払ったことと関係しているのかもしれない。  母はウェレダ、父の奴隷だったが、私が父から買った。口が利けず、粘土板を使って会話していたが、父の死後は文字を書かなくなった。腕の良い彫り物師で狩人だったが、腕を振るうことも、私と姉以外に関心を向けることもなくなった。父の死で心が壊れたのかもしれない。たまに誰もいない空間に話しかけているが、喉から出る音は言葉にならない。幼い頃は、母の発する音が理解できた気もしたが、今は全く分からない。 父がどのように母と出会ったのかは、わからない。父からは聞いたことがない。軍団や町の噂によると、父がゲルマニアの森で捕らえた狩りの女神ディアナのニンフ、精霊だという。父の武勇談の一つとして語られることすらある。それを裏打ちするかのように母は40歳を越えているはずだが、容姿が衰えない。まだ10代のように見える。狩りの女神ディアナの精霊の一人、カリストは子を孕んだ罰を受けて熊に変えられたというが、母は罰を受けずに済んでいるようだ。我が家で家政婦をしていたリネットは母がブリタニアの精霊かもしれない、と言っていた。私が人と精霊の合いの子とでも言いたいのだろうか、半神半人のヘラクレスやアキレウスのような力を持っていないというのに。  姉のアウリニアは私の上司、第3大隊長セクストス・アセリウスの妻だ。父の奴隷だったが、セクストス大隊長の父マルクス・アセリウスが買い取り解放した。今は2人の息子と娘が1人いる。母の技を受け継いだ優れた彫り物師で、剣術にも優れている。セクストス大隊長によると、ローマ市民が元奴隷を妻にすれば風当たりが強くなるのが普通だが、伝説の兵士の娘を妻とした男として尊重されてるそうだ。軍団での父の名声はそれ程に大きい。  軍団は9年前にゲルマニアのモグンティアクムからパンノニアのムルセラ(現在のハンガリーのジェール近郊)へ移動して新しい駐屯地を建設した。母と姉も一緒に来て近くに住んでいた。リネットにモグンティアクムの父の家の管理を任せ、手紙で連絡を取り合っている。現在は農場として使っているようだ。  ムルセラは父が邪教徒討伐に参加したカルヌントゥムから2日の距離にある。移動してすぐにカルヌントゥムへ旅し、父が邪教徒を討伐した洞窟を見た。洞窟周辺は邪教徒の悪霊が出ると噂になり、誰も近づこうとしない。洞窟の入り口の近くに小さな石碑が2本立っていた。一つには兵士の彫刻があった。 「第14軍団デクリウス・フルウィウス百人隊長。キリストの生誕から71年目。ティトゥス・カエリウスがこれを建てた。彼はここに眠る。」 なぜ父が。キリストとはどういうことだ。疑問に思いもう一つを見ると、もう一つには鳩の彫刻がある。 「デクリウス・フルウィウスの妻アダ。キリストの生誕から71年目。ティトゥス・カエリウスがこれを建てた。彼女はここに眠る。」 父は邪教徒に知り合いでもいたのだろうか。これも父の死に関係があるのだろうか。疑問に思ったが、調べようもなく、二つの墓に花を添えて洞窟から離れた。  近くの滝へ行くと、森の神シルウァヌスのニンフ、精霊に出会った。本物の精霊ではなく精霊のような女だ。滝で水浴びをしている所を見かけ、見惚れてしまった。太陽に照らされ、水に濡れた体が光り輝いていた。女神ディアナの水浴びを覗き見て、鹿に変えられたアクタイオンのような気分だ。襲い掛かっていたら、私も鹿に変えられたのかもしれないが、目が離せず動けなかった。 女は私の姿を見ると、恥ずかしがる様子もなく私を凝視して言った。私を知っている気がすると。私も女を昔から見ていた気がした。私は女に求婚し、女は承諾してくれた。意識して言ったのではない。女を見ている内に口をついて求婚の言葉が漏れ出たのだ。  軍団兵は結婚が許されないから、今は非合法の妻だが、退役したら正式に結婚する。妻の名はブランウェン、真直ぐな腰までかかる黒髪と、菫色の瞳が特徴だ。今は息子が一人と、娘が2人いる。妻はブリタニアのベンタ・イケノルム(現在のノリッチ)出身の商人の娘だ。妻の父はイケニ族戦士だったが、イケニ族の反乱で一族を失い大陸へ逃れ、カルヌントゥムへ流れ着いた。そこで家庭を持ち娘が生まれた。義父はカルヌントゥムで商売を続けている。 妻を母に会わせると、驚いたことに母が妻に話しかけた。父の死後、母が私や姉以外に話しかけてきたのは初めてだ。妻によると母は妻の名を知っていた。妻に母の出す音の意味がどうして解るのか訊ねると、理由は分からない、なぜか母の伝えたいことがわかると言う。 妻は母を大切にしてくれる。妻は母に懐かれ、姉とも意気投合した。姉によると母は精霊に愛された特別な人だから精霊を通して意思疎通ができる。妻も精霊と関わりのある人なのだろう、と言う。私にはその意味が全く分からない。3人の間でだけ通じる特別な何かがあるのだろう。  入隊以来8年間戦いもなく、穏やかな日々を過ごしてきたが、昨年ダキア討伐が決定し、軍団はドナウ河沿いのウィンドボナ(現在のウィーン)へ移動して準備に入った。明日、皇帝トラヤヌス指揮の下でダキア王デケバルスを討伐すべく出陣する。十年近く前に第5軍団が壊滅し、第7「クラウディア」軍団が仇を打ったが、決着のついていない相手だ。前回は1個軍団づつ2回に分けた侵攻だった。今回、参加するのは12個軍団約十万人、ローマ全軍の三分の一の戦力だ。  幸いなことに我が軍団は予備で先陣ではない。ドナウ河を下り、ブリゲティオ(現在のハンガリーのコマーロム近郊)へ移動して命令を待つ。うまくいけばダキアへ侵攻しなくて済む。ブリゲティオなら、家族の住むムルセラまで1日の距離しかない。 軍団にはムルセラ近くの陣地勤務の希望を出した。近くに行けば毎日でも家族に会える。希望が叶わず、たとえ出陣しても、私は必ず生きて帰る。手柄を立てようとは思わない。軍団に入って十年以上経つが父と違い、軍団表彰どころか銀のカップすら受けていない。同僚から伝説の兵士の子かと揶揄われることも多い。しかし、私にとって一番大切なのはブランウェンと三人の子供たち、そして母ウェレダだ。父のように軍団を第一に考えるつもりはないし、よき兵士になるつもりもない。25年の軍務を終えたらすぐに退役して、ローマ市民権を得て、母を解放し、妻と結婚する。
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