2.私

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2.私

 私の名はティトゥス・カエリウス、第14「双子」軍団第3大隊3中隊第4小隊に所属している。軍団は10個の大隊で構成され、各大隊は6個の中隊、中隊は10個の小隊だ。小隊員は小隊長も含めて8名だから中隊は80名、大隊は480名になる。第一大隊は特別編成で、中隊は20個小隊の160名で、5個中隊の800名だ。軍団全体の軍団員は5120名になる。他に軍団長や軍団副官などの幕僚と補助要員、騎兵隊や砲兵などが加わる。しかし、軍団が定員を充足していることはまずない。定員の7割いればよい方だ。私の小隊も小隊長デクリウス・フルウィウス十人隊長と私を含め6名しかいない。欠員2名だ。  第14軍団はユリウス・カエサルが創設した軍団で、ガリア遠征にも参加した。皇帝アウグストゥスが他の軍団と合併し、双子軍団の通称で呼ばれるようになる。二つの軍団が合わさった軍団という意味だ。  皇帝アウグストゥスの治世にゲルマニア総督プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス率いる3個軍団がゲルマニアで壊滅し、次代皇帝ティベリウスの治世に復讐戦が行われた。この復讐戦に第14軍団は参加し、ゲルマニア総督ゲルマニクス・ユリウス・カエサルの指揮下で戦い、幾つもの武勲を上げた。 このゲルマニア戦の最中に、第14軍団の百人隊長だった祖父ガイウス・カエリウスがゲルマニア人の赤子を拾った。この赤子が父で父の実父や実母はわからない。家族のいなかった祖父は父を養子として迎え、ルキウスと名付けて後継ぎにした。祖父はガリア・ナルボネンシスのマッサリア(現在のマルセイユ)の平民出身で、特に財産は持っていなかった。  父は祖父の跡を継ぎ、「陣営生まれ」として第14軍団に入隊した。「陣営生まれ」とはローマ兵の私生児や養子で、正式のローマ市民でない子供を指す。通常、軍団にはローマ市民でなければ入隊できないが、「陣営生まれ」は特例として入隊でき、25年の軍務を務めあげて退役すればローマ市民権が与えられる。退役時の軍歴や財産によってはローマ騎士にもなれる。父は入隊して9年後に百人隊長に昇進し、同じ年に第14軍団は皇帝クラウディウスの指揮でブリタニア遠征に参加した。父はここで奴隷を購入した。現地のブリトン人奴隷は安かったが、父はゲルマニア人にこだわり、高価であったがゲルマニア人の娘を購入した。この奴隷が私の母だ。  父は妻を持とうと思わなかったが、跡取りの息子を欲した。だから、子供を産ませるために若い女の奴隷を必要とした。祖父と同様に息子を第14軍団に入隊させたいと望んでいた。父にとって第14軍団こそが家であり、家族だから、息子を通して軍団との繋がりを強く保ちたかったのだろう。  私は今から3年前に14歳(ローマ人の成人年齢は14歳)で成人すると同時に入隊した。父は軍団兵だが市民権を持っていないし、母が奴隷だから、私も父同様に「陣営生まれ」として入隊した。本来、16歳未満は入隊できない。これも特例だ。当時、我が軍団は定員の半分も満たせず、兵員不足に苦しんでいた。そこで年齢制限を下げて兵士の子弟を募集し、募集に応じた14から18歳の少年を集めて一つの中隊を編成した。それが私の所属する第3大隊第3中隊、通称「少年隊」だ。 中隊長のアクイラ百人隊長は18歳、小隊長のデクリウス十人隊長も18歳だ。ローマ軍で最も若い百人隊長と、十人隊長だ。アクイラ百人隊長はブリタニア生まれでもローマ騎士の出身だ。デクリウス十人隊長の家は平民だ。我が中隊には3年前の募集以来、新人は入隊していない。編成時の人員のまま今に至り、「最も」若い百人隊長と、十人隊長は21歳になり、「ただの」若い百人隊長と、十人隊長となった。私も17歳になり、最低年齢16歳を越えて特例の軍団員から普通の軍団員になった。  私が入隊するのと入れ替わりで父が退役した。父は主席百人隊長、第一大隊長に出世していたから、その気になれば屯営長に出世できたろう。軍団に強い拘りを持つ父がなぜ退役する気になったのかわからない。家には私と母が住んでいたが、父の退役に伴い、私と父が入れ替わった。父はローマ市民権を得て、「陣営生まれ」だが、主席百人隊長まで出世し、評価財産も40万セステルティウスを超えていたのでローマ騎士の称号も得た。ここからローマの官吏として出世する道もあるが、父には関心がなかったようだ。 父から手紙で呼び出されて軍団駐屯地のウィロコニウムへ行き、父の退役と私の入隊を知らされた。父は家へ帰り、私は駐屯地に残った。家に帰った父は母を売り払った。息子を産み、兵士として育て上げたらもう不要だという。入隊して1年目の最初の休暇の時にそれを知った。父のすることだから間違いないだろうと考えると同時に、父を殴りたくなる激しい感情に襲われて混乱した。思考の上では納得しながら、感情の上では強いわだかまりを残した。父を殴りたいと思ったのは後にも先にもこの時だけだ。  それ以来、奴隷を買って子どもを産ませるようなまねはせずに、きちんと妻をとり、子を授かろうと、考えるようになっていた。  戦いの一年前、ブリタニア西部のモラ島への侵攻が決まり、一時休暇を与えられて東部のイケニ族の領域にある家へ帰郷した。軍団駐屯地から4日間歩き、最後の丘を登ると家が見えた。家はちょっとした砦だ。父はよい兵士たるもの何でもできなければならないと考えている。一人で砦は作るし、大弓や投石機などの兵器も作る。料理や家事もこなす。家のことは奴隷に任せる一般のローマ人とは大きく異なる。奴隷はいない。  私が入隊前で父が軍団にいた頃、父が帰る都度、壕の掘り方や、敵の侵入を妨ぐ逆木の設置法、土塀の作り方を学び、父がいない日には一人で家の防御施設を強化した。軍団駐屯地がカムロドゥヌム(現在のコルチェスター)の時、父の大隊はイケニ族監視のために家の近くに駐屯していた。父は毎日家に帰って来た。移動後は2、3カ月に1回くらいに減ってしまった。 大弓や投石機などの兵器の作り方も父から学んだ。家には私と父が作った兵器が幾つもある。ギリシア語とラテン語も父から学び、マルクス・ポルキウス・カトの「農業論」やアエネアス・タクティクスの「戦術論」などの実用書だけでなく、カトゥルルスやプロペルティウスの恋愛詩なども読んだ。手に入った書物を手当たり次第に読んだ。父に言わせれば、実用書から恋愛詩や風刺詩に至るまで幅広い知識に触れる必要があるそうだ。書物は軍団副官などの貴族出の将校から借りたものばかり。読み終わったら返していたので、家に書物は殆ど残っていない。重要な書物は複写して残した。  丘の上から目を凝らして砦を眺めた。さすが父だ。私が出た後、さらに砦を強化している。壕は深く、土塀は高くなり、見張り台まで設置している。しかし、兵士が一人では意味がないだろう。あれには実用的な意味はない。父の退役後の楽しみなんだろう。  「兄様!」  背後から声が聞こえた。振り向くと、丘の下の方で少女が手を振っている。ブランウェンだ。ゆっくり彼女の方へ歩きだすと、彼女は走り出した。ブランウェンは父が懇意にしているイケニ族戦士スィールの娘で、年齢は2つ下で当時は14歳だ。スィールは父からローマ軍の戦い方を学んでいた。父はスィールからブリトン人について学んでいた。特にブリトンの言葉と、ドルイド僧の信仰に関心があるようだ。ローマはいつの日にかブリタニア島全体を征服する。その時のために必要な知識だそうだ。一方、スィールはいつの日にかローマを島から追い出すために必要な知識を父から学んでいる。将来の敵に対して知識を与えあう不思議な関係だ。  ブランウェンは私に近づくと、飛び付いてきた。無邪気なところは昔のままだ。家にいた頃は私を兄と慕い、父をもう一人の父と呼び、剣術の稽古などしていた。女王ブーディカに戦士として仕えるのが夢だと語っていた。そのために剣術が必要だと。今も変わらないのだろうか。ブランウェンはたどたどしいラテン語で話しかけてきた。  「兄様。休暇は長い?前は7日しかいなかった。」  顔を近づけて満身の笑みで語りかけてくる。もう少し近づいたら、顔がぶつかってしまう。誰も見ていないとブランウェンはこの距離で話かけ、美の女神ウェヌスと同じ菫色の瞳で私の目を見つめてくる。私もブランウェンを見つめ返して答えた。  「残念だけど、3日だけ。近いうちに出陣なんだよ。」  ブランウェンはうつむき、笑顔が消えた。  「そう。」  ブランウェンの頭を撫で、家へ行くように促すと、彼女は頭を上げて笑顔を取り戻した。一見すると、男の子と見間違いそうな姿をしている。駐屯地に来る娼婦は全体的に細身で胸を強調する服装をし、小麦粉を塗したような分厚い化粧をしているが、ブランウェンは化粧をしていないし、女性にしてはしっかりした体格をしている。いや、単に幼いだけなのかもしれない。ローマの貴婦人は体の線を隠し、肌が出ないように全身を覆うような服を着ている。ブランウェンはズボンに胸元や肩と腕が露室した服、ローマの貴婦人に比べれば体の線がはっきりわかる薄着だ。私はブランウェンを眺め、ラテン語で話しかけた。  「ラテン語うまくなったね。」  ブランウェンは嬉しそうに跳ね上がり、顔を真っ赤にしてうつむいて答えた。  「兄様の言葉だから、ルキウス父さまに教わった。」  「頑張ったね。だけど僕はラテン語が苦手なんだよ。ブリトンの地でブリトンの言葉で育ったからね。」  そう。私はこの地で生まれ、ブリトン人のイケニ族に囲まれた育った。父は普段の言葉としてラテン語を使い、ギリシア語を私に教えた。父がいない時は独学で、月に一度はカムロドゥノンの町でラテン語とギリシア語を学んだ。母はゲルマニアの言葉を使っていた。父は母の言葉を学ぼうと努力していたが、身に着けることができなかった。私は母の言葉を聞く内に自然と身に着けた。おかげで、4つの言葉を理解できるようになった。父はラテン語とギリシア語はできるが、ゲルマニアの言葉とブリトンの言葉は苦手だ。  軍団駐屯地周辺に住むブリトン人とイケニ族の言葉は違いもあるがよく似ていて会話に支障はない。「少年隊」はこの地で育った者ばかりで、ブリトンの言葉を使える者が多い。本来、新兵は海の向こうのガリア・ナルボネンシスやイタリアから募る。だから、軍団全体でみればラテン語しかできない兵の方が圧倒的に多い。「少年隊」は年齢もさることながら、言葉の上でも異質な存在だ。  私はイケニ族と共に生活していたせいか、母がゲルマニア風の慣習で育てたせいか、軍団でのローマ風の生活になかなか馴染めない。仲間とも馴染み切れない何か、わだかまりのような、皆からはじき出されたような、本来あるべき場所ではないところにいるような、おかしな感覚を覚えることが多い。少年隊ではブリトンの言葉が通じるだけまだいいが、ラテン語しか通じない他の中隊へ行くと一層強い違和感を感じる。  様々なことを思い浮かべながら、ぼんやりとブランウェンの頭を見つめていた。真直ぐな黒髪を頭の後ろでまとめている。ブリトンでは髪にウェーブがかかる女性が多い中、珍しい髪質だ。混じりけなしの黒髪も珍しい。普通、ブリトン人は髪を染めたり、脱色するのだが、ブランウェンは黒髪が気に入ってるそうで、髪の色をいじろうとしない。ギリシア一の美女ヘレネを産んだレダの黒髪の如く、ギリシアの大神ゼウスをも惑わす黒髪だ。私もこの黒髪が好きだ。髪を解いた姿もまた見てみたい。2年前に水浴びをしている姿を見た時には髪を下ろし、腰の辺りまで髪が垂れていた。あの時、彼女は私を気にする様子もなく、水浴びを楽しんでいた。 ブランウェンに限らず、ブリトン人は裸を見られることに抵抗がない。私も意識していなかったのだが、ローマの婦人は裸どころか、足や腕の肌を出すことすら嫌う。肌を出すのは娼婦だけだという。  ブランウェンが急に顔を上げ、笑顔でブリトンの言葉で話しかけてきた。  「ならこっちがいいね。」  後はゆっくり歩きながら、ブリトンの言葉で近況を語り合った。いや、ブランウェンが父やイケニ族の様子を話し続け、私は黙ってそれを聞いていた。ブランウェンは手ぶりも加え、夢中で話をしている。時折、私の目を覗き込み、私の反応を窺ったりもする。私は彼女の顔を眺めながら相槌を打ち、時に笑い声を挙げ、彼女の話を聞いていた。  ブランウェンによると、ローマの官吏のイケニ族に対する締め付けが厳しくなっている。退役兵がイケニ族の土地を強引に奪う事件も多発している。土地の強奪に現地のローマ兵が協力することも多い。イケニ族では不満が高まり、不穏な空気が漂っている。父は何度か官吏に抗議し、仲間の退役兵と共にローマ兵相手の戦いに発展しそうになったこともあった。  父らしい。よき兵士は何でもでき、同時に名誉を重んじなければならない。特に栄光ある第14軍団の名に泥を塗るような真似はできない。戦いの最中での兵士の権利である略奪は良いが、平時の略奪は泥棒と同じ、名誉ある兵士のやることではない。そして不要な財産を持つべきではない。必要最低限の物で満足すべきだ。その考えが行き過ぎて、母を売ったのだろう。  父の砦の土地はスィールから買ったものだ。スィールはローマのことを教わる代価として土地を譲ると言ったそうだが、父は無償で土地の提供を受けるわけにはいかないと拒否し、20万セステルティウスを支払うと言った。百人隊長の10年分の年収に匹敵する額だ。スィールはそれを拒否して言い争いになったが、その金を女王ブーディカに献上することで話がまとまった。父にしても、スィールにしても、金にそれほどの価値を見出していないから起きた騒動だったのかもしれない。  父は何人かの元部下と共にスィールが提供した土地に住み、農業を営んでいる。父は農業だけでなく、イケニ族に対する教育と、武器の制作もしている。よい兵士は何でもできなければならない。農業は当然として教師もやり、医療もこなしている。イケニ族の鍛冶師に学び、鍛冶屋の真似事までしている。  家に着くと、父とスィールが酒を酌み交わしていた。スィールは立ち上がると大きく腕を広げて近寄り、抱きしめてきた。父はこちらを向いて座ったままだ。スィールは私に隣へ座るように指示し、ラテン語で話しかけてきた。  「たくましくなったな。これなら娘を任せても大丈夫だ。」  私はごまかすように答えた。  「おじさん、ラテン語が上達しましたね。」  スィールが恥ずかしそうに手を頭に当てると、父が厳しい表情のままスィールに話しかけた。  「お前の娘なら、よい兵士を産めるだろうし、よい兵士にもなれるだろう。俺の息子にはうってつけだ。」  驚いた。父は妻を持つのに反対と思っていたが、妻を迎えるのに賛成している。私も気心が知れたブランウェンなら安心できる。しかし、ブランウェンはどう思っているのか、私を兄と思っているだけではないか。ブランウェンは私の隣に座り、うつむいたままだ。  スィールが父の方を向いて答えた。  「お前の息子もイケニの強い戦士になれる。どうだ、娘の婿にくれないか。」  父が渋い顔をするとスィールは笑い出し、再び2人の会話が弾み酒宴が続いた。私は2人に相槌を打つばかりだ。いつしか、ブランウェンは席を立ち、食事や酒を運んでいた。酒宴の間、ブランウェンとの会話はなかった。  私が戻ってきたとの知らせは近隣に広がり、イケニ族や退役兵が父の砦に集まった。彼らが持ってきた食料や酒で、一緒に来た女達が準備をした。父も女達に混じり、腕を振るった。男達からは女の仕事をする男がいると声が挙がったが、父は決まって同じことを言い返した。  「よい兵士は何でもできなければならない。料理も例外ではない。」  父の魚料理は女たちの間では、味の深みで評判になった。魚をワインとリクアメン(魚醤のような調味料)に浸し、ルタ(ヘンルーダ)とオリガノ(花薄荷)を添えて油で揚げ、胡椒の代用品をかけた料理だ。もう一種類、リクアメンに浸した魚を油で揚げ、蜂蜜と酢と葡萄の搾り汁を混ぜた物をかけた料理も作った。  男たちの間では特に話題にならなかった。味が悪かったからではない、どの料理が父の調理した物か分からなかっただけだ。父が料理に参加したのは、最近手に入れたアピキウスの料理書を試したかっただけかもしれない。ローマでは評判の料理書だが、辺境のここでそれを知る者はいない。 父に付き合い料理をした際、料理書が指示する調味料には高価な物や、ここでは手に入らない物が多いからそれに代わる物を工夫しなければならないと、注意された。例えば胡椒はブリタニアには余り入ってこない。だから代わりにユニペイルス(杜松)やソルブス(七竈)の実を使った。これならブリタニアでも容易に手に入る。商人の持ち込む偽胡椒にもユニペイルスの実から作った物があるようだ。本物の胡椒を知らないのでどこまで代用できているのかは分からない。ガルム(魚醤のような調味料)も高価なのでリクアメンで代用する。よい兵士は困難な状況でも、今ある物を工夫して状況を改善しなければならない。  昼間はブランウェンと過ごしていた。木剣で戦ったり、ラテン語の本を読んだ。森へ行き、薬草や木の実や茸などの食料を集めたりもした。ブランウェンと共に過ごす時間は楽しく、時を忘れる。  木剣で戦った時には上達ぶりに驚いた。私はローマ兵の戦い方で戦う。足をしっかりと地面につけ、硬い構えで、相手の攻撃を避けつつ、タイミングを見て相手の腹に突きをお見舞いする。ブランウェンは踵を地面につけず、軽い構えで何度も牽制攻撃を仕掛けてきた。剣を左右に大きく振り回す、ブリトン人の一般的な戦い方とはまるで違う。相手の攻撃を避けつつ反撃を狙うローマ人の戦い方とも異なる。  右から左へと変幻自在に牽制攻撃を仕掛け、相手の攻撃を引き出そうとする。まるで踊っているような動きだ。それでいて無駄のない動きで体力の消耗を抑えている。隙が見えた瞬間に剣を突き出した。彼女は僅かな動きで攻撃を避けると、私の剣めがけて剣を振り下ろした。予想外の動きで、私は剣を叩き落されて体勢を崩した。私は手を挙げ、降参だと合図した。ブランウェンは嬉しそうに私の剣を拾って言った。  「兄様、凄いでしょう。ルキウス父様から教わったの。ローマ兵相手ならこの方法がいいって。体力を使い過ぎないように動きも少ない方がいいんだけど、まだ練習が足りなくて。」  私は驚いた顔をしてブランウェンから剣を受け取った。  「いや、本当に凄い。剣を狙うとは思わなかったよ。それに動きを掴み切れない。父からこんな戦い方は教わったことがないな。」  ブランウェンは恥ずかしそうにうつむいてから、不意に顔を上げて飛び込み、顔がぶつかりそうになるくらい近づいて言った。  「もう一度。」  ブランウェンの額から流れ落ちる汗を見た瞬間、抱きしめたくなり両腕を上げたが、ブランウェンはそれよりも早く剣を構えて戦いの体勢に入っていた。この余計な情動が動きを鈍らせているのかもしれない。私も剣を構えて言った。  「次はないよ。」  相手の手の内を知っている以上、負ける気はしなかった。なのにブランウェンの牽制にはまり、剣を打ち落とされた。3試合目では一撃、お見舞しようと剣を出した瞬間にブランウェンが宙を舞い、胸を蹴り飛ばされた。不意のことに転倒して負けてしまった。ブランウェンの動きは対戦ごとに変化する。私は動きを掴めず、勝てない。  4試合目からは勝ちを狙わず、ブランウェンの動きを把握し、記憶することに勤めた。ブランウェンの剣術を把握するためにわざと負けるような動きもした。おかげで、ブランウェンの剣術を把握できた。次は動きを再現できるかもしれない。  最後の酒宴でスィールがブランウェンと私の婚約を発表した。父は幾分緩んだ顔で応じていた。いつも厳しい顔をしている父にしては珍しい。イケニ族の中には不満を口にする者もいたが、多くは歓迎の意を示してくれた。退役兵には驚いた表情をする者もかなりいた。ローマ人と現地人が結婚するのが不思議でならないようだ。ブランウェンの兄エシエンは喜んでいた。エシエンは私より一つ下で、父やスィールの下で戦い方や言葉などを共に学んだ幼馴染であり学友でもある。  皆の輪の中で、ブランウェンはうつむき、私の手を強く握り、かすかに震えてた。スィールは私の肩に手を置いて皆に向かって大声で宣言した。  「我が娘をローマ人に与える。」  イケニ族の間からどよめきが起きた。不快な表情をする者もいる。スィールが皆の様子を確認するように見回し、言葉を続けた。  「退役した後は、ルキウスを継ぎ、イケニと共に生きるのだ!」  スィールは言葉を終えると、私の顔を見て背中を何度も叩いた。イケニ族の間から賛同の声が巻き起こった。父はイケニ族に受け入れられていた。私にその跡を継げということだ。私は父の後継ぎとして生まれ、教育を受けてきた。第14軍団に入隊したのも父の後継ぎとしてだ。イケニ族と共に生活し、学んできたのも父の指示だ。それを当然と考えてきた。今日の酒宴でそれを強く再認識し、安堵感に包まれた。私の居場所は確かにここにある。  だが、父がイケニ族のことを考えてるとは思えない。父は「よい兵士は何でもできなければならない。」との信念に従い、イケニ族から学べるところは学びたいと思っているだけだろう。その代価として教育を施し、医療を提供している。スィールにとっては父の動機が何だろうと関係ない。イケニ族の利益になれば、それでよいと考えてるのだろう。  駐屯地に帰る朝、家が見える丘の上までブランウェンがついてきた。笑いながら話しかけてくる。嬉しそうで、私の周りを何度も巡り、私の全身を様々な角度から眺めまわすように歩き回る。ブリトン人のいう愛の精霊リャナン・シーが本当にいるとしたらこんな感じか、それともローマ人の言うところの狩猟の神ディアナと言った方がいいか、母から聞いたゲルマンの戦の神へリアンの娘達、ヴァルキューレの女戦士に例えることもできそうだ。詩人プロペルティウスの描く運動場のスパルタ娘でもいい。ブランウェンの姿を追いながら、とりとめもない空想に浸り、返事を返していた。丘の頂上に着くと、ブランウェンの表情は陰り、私の目を見つめて言った。  「兄様、早く帰ってきて。」  ブランウェンは涙ぐんでいた。私は反射的にブランウェンの両肩を掴み目を見つめると、自然と言葉が流れ出た。  「戦いが終わったらすぐ帰ってくるよ。帰ったらイケニのやり方で結婚式だ。ローマの法では退役するまで結婚できないけど、イケニとしてなら関係ない。必ずだよ。」  ブランウェンは泣きながら何度もうなずいていた。私は「必ずだよ。」と何度も繰り返していた。喜びが心を満たす。いや、それ以上の何かだ。なのにブランウェンと別れて丘を下りだすと、不安が湧いてきた。歩みを進めるに伴って不安は大きくなるばかり。戦いが終われば素晴らしい未来が開けるはずなのに、不安ばかり大きくなる。胸が締め付けられる。これが最後ではないかと、陰鬱な気持ちが喜びを押しのけ、心を満たしていく。その度に後ろを振り向いた。私が振り向く都度に丘の上でブランウェンが手を振っていた。いつしか丘が視界から隠れ、ブランウェンが見えなくなったが、それでも何度も振り返っていた。
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