3.前夜

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3.前夜

 ブランウェンから別れて一年後、イケニ族の女王ブーディカとの決戦の前夜、我が軍はブリトン人の大軍に追われて北へ移動していた。宿営地の建設を終え、小隊毎に集まり、焚火を囲んで食事をとった。食事はパンと湯だけで、大麦の粥も、オリーブ油もワインもない。不利な状況に皆が落ち込んでいた。  アウルスがうつむいて空のカップを眺めながらぼやいた。  「第2軍団、来ないのか。」  プブリウスがそれに続いた。  「第9軍団は壊滅した。第20軍団は間に合いそうにない。残るのは我が軍団だけ。」  皆、言葉を続けられなかった。  状況は極めて悪い。我が軍団はスエトニウス総督の下でブリタニア西端のモナ島を攻撃した。モナ島がブリタニアの土着信仰、ドルイド僧の巣窟で人身御供や食人などローマの風習には馴染まない行為を繰り返していたのと、反ローマ勢力の拠点になっているとの噂があったからだ。実際どうか分からない。上陸して橋頭保を築くと撤退と決まり、実像を見て回る余裕がなかった。  西端のモナ島へ遠征している最中に、東端で女王ブーディカが反乱を起こし、周囲のブリトン人を糾合した。直ちに第9「ヒスパナ」軍団が鎮圧に赴いたが、第9軍団長クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスの軽率な行動で軍団は待ち伏せに会い、壊滅した。ケリアリス軍団長は駐屯地へ遁走し、立て籠もったままだ。ブリタニア統治のもう一人の責任者、皇帝属使カトゥス・デキヌスはいち早く逃げ出し、海を渡った。  スエトニウス総督は一報を受けると、モナ島攻撃を中断して第14軍団を東へ転じ、全軍に集結を命じたが、ブリタニアに駐留する他の3軍団は使い物にならなかった。第9軍団は壊滅し、第20軍団は集結に手間取り、予備隊と幕僚だけが駆け付けた。第2「アウグスタ」軍団は軍団長未着任で、軍団長代理の屯営長ポエニウス・ポストゥムスが怖気づき、出陣を拒否した。屯営長は一般兵からの叩き上げが多い。一般兵として入隊したら、十人隊長、百人隊長を経て屯営長に上る。だから、軍団長や軍団副官などのローマ貴族出身で短期間しか軍務につかない将校と違い、勇敢で優秀な者が多い。なのにポエニウス屯営長は戦いを拒否した。  話が続かず黙り込んでいたら、クゥイントゥスが怒鳴り声を上げた。  「おい!元気を出せ!」  皆が虚ろな表情で顔を上げると、クゥイントゥスは続けた。  「第20軍団は全部じゃないけど到着してる。各地の守備隊や補助隊も来ている。我が軍の兵力は既に1万人に上る。兵力では敵に引けは取らない。」  さっき軍団副官が布告した内容そのままだ。たしかに部隊は集まっているが、実数は5千人に満たないだろう。我が軍団は定数に満たず4千名に届かない。集結が完了していない第20軍団は千名もいないだろう。他の部隊は数十名単位で、全部合わせても五百名いるかどうか。  それを裏打ちするように、他の部隊のテントは少ない。もし本当に1万人もいるのなら、テントの数は我が軍団よりも多いはず。なのに半分もない。全体を見渡せる場所に立てばはっきりする。焚火の数を見るだけでも明らかだ。  「俺たちは第14軍団だぞ!忘れたか!ユリウス・カエサルが創設し、ガリアを征服し、ゲルマニア人を叩きのめして、ブリタニアを制圧した常勝無敗の軍団だ!簡単に蹴散らされた第9軍団とはわけが違う!」  クゥイントゥスは演説を続けたが、それで皆の気持ちが上向くことはなかった。いくら語ろうとも状況は悪いし、食料の不足がそれに追い打ちをかけた。それに少し前、ロンディウム(現在のロンドン)やウェルラミウムで助けを求める市民を見捨てたショックも尾を引いている。  モナ島から引き返した我が軍団はロンディウム近郊に至った。軍団員は皆、ロンディウムに入場してブリトン人を迎え撃つと思っていた。しかし、下された命令は撤退だった。動揺が広がった。ロンディウムに身内がいる兵は多い。軍団には敵を侮り楽に勝てるとの見方が広がっていただけに、なぜ退くのか?多くの兵が疑問を抱いた。  撤退が始まると、ロンディウムの市民が軍団に押し掛け、撤退しないように懇願した。撤退を拒否する兵もいた。スエトニウス総督は命令拒否者に厳罰を下すと宣言し、数名を鞭打ちに処し、それでも逆らう兵を処刑した。スエトニウス総督の強い意志に押されて軍団の動揺は収まったが、士気は低下した。移動を開始すると、市民もついてきた。  ウェルラミウムまで退いて来ると串刺の遺体が多数並んでいた。大半が女性のようだ。全裸で胸を切り落とされ、口に肉片が押し込まれていた。その周囲には男性と思しき首のない遺体が多数散らばっている。串刺しの森の中央には多数の焼け焦げた遺体が山になっていた。おそらく、生贄の巨人だ。大きな人型の檻の中に人を詰めて焼き殺す、ブリトン人の儀式だ。 生き残った市民が軍団の到着を聞きつけ、保護を求めてきたが、スエトニウス総督は再び退却の命令を下した。抗議の声が巻き起こったが、我々は無視して行軍を開始した。ウェルラミウム市民はロンディウム市民と共についてきた。しかし、市民が軍団についてこれるはずもなく、多くが脱落者して殺された。我々は行軍を急ぐあまり、救助に行けず、ただ見ているだけ。身内が殺されるのを手をこまねいて見ていた兵もいただろう。兵の士気は急速に衰え、楽に勝てると思う兵はもういない。  私はブランウェンが気がかりでならなかった。無事でいるだろうか。ローマ人の婚約者、裏切り者、そのような理由で彼女が害されることはないだろうか。それとも女王ブーディカの元へ行き、私に刃を向けようとしているのだろうか、不安を通り越して恐怖すら覚えていた。  ようやく戦いの準備が整い、少し先の丘陵で迎え撃つことになったが、敵の数は多く味方は少なく、士気は低い。これで本当に勝てるのだろうか。いや、今こそ父が言っていたことを実践する時かもしれない。「よい兵士は何でもできなければならない。」絶望的な状況に陥ろうと、よい兵士ならば奮起し、よき兵士として戦わなければならない。しかし、そう思おうとしてもブランウェンが気がかりで、気持ちの落ち込みを抑えられない。  いつしか、クゥイントゥスの演説は終わっていた。そこにデクリウス十人隊長が戻ってきた。右手に壺を持ち、左手には何か包みを持っている。  「いいものを持ってきたぞ。」  デクリウス十人隊長は壺と包みを焚火の近くに置くと包みを開いて見せ、壺を指さした。  「イタリアのチーズとワインだぞ。アグリコラ軍団副官殿からの差し入れだ。」  皆から歓声が上がると、デクリウス十人隊長は手を上下して静まるように合図した。  「静かに。これしかないから、他の小隊に知られたらまずい。これ食って元気出せ。」  皆が食べ始めると、デクリウス十人隊長は飲みながら言葉を続けた。  「明日は我々が先陣を務める。全軍中央の最前列だ。一番きつい所を引き受ける。これはその手向けだ。」  皆の表情が硬くなると、デクリウス十人隊長は笑顔を見せ、軽い調子で言った。  「なに、大丈夫だ。訓練通りやればいい。明日は銀のカップで祝杯を挙げるぞ。」  美味い食い物と酒のおかげで皆の表情が明るくなった。  我が小隊で人を殺した経験のある者はいない。モナ島でも、我が小隊は敵と遭遇する前に撤退した。戦いで一人でも敵を殺せば銀のカップが与えられる。戦いの多い地域でも与えられる者は少ない。実際に敵と対面して戦う兵は全体から見れば少数だし、その少数の中で敵を殺したと証明できる例は少ない。我が小隊は敵と対面して戦う可能性が高い場所に配置される。だから銀のカップを手にできる可能性は大きい。その代わり、死ぬ可能性も大きい。  酒と食い物、デクリウス十人隊長の自信に満ちた態度で皆の不安も吹き飛んだ。いつしか私も不安よりも、銀のカップを手にできる期待の方が大きくなり、もしかしたら勇敢な者に与えられる銀の小盾も狙えるかもしれないと思うほどに、気持ちが大きくなっていた。それでも私の敵手としてブランウェンが現れるのではないか、串刺し遺体になってるのではないか、不吉な思いが湧き上がるのを抑えられなかった。
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