7.新天地

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7.新天地

 パンノニアのカルヌントゥム駐屯地はドナウ河に面した位置にあり、河沿いに我が軍団の駐屯地があり、河と反対側の隣に第10「双子」軍団の駐屯地がある。二つの駐屯地を囲むように町が広がっている。河沿いのもう少し上流に市があり、市と駐屯地は完全に分かれている。市は商人の町でドナウ河を上り、海を越えて北の民族と交易をしている。 北の地から持ち込まれる琥珀をここではよく見かける。太陽神ヘリオスの娘が悲しみから木になり、その木から漏れる樹液が固まった物が琥珀だという。琥珀はローマで人気があり、皇帝ネロは前妻ポッパエアの髪を琥珀と呼んでいた。琥珀は宝石としてだけでなく、精神や胃の薬としても使われる。  商人たちと共に北の人々も来る。30年くらい前に北の部族の王の一人、ウァンニウスが戦に敗れてローマの保護を求めて住み着き、その縁で多くの北の人々が訪れるようになった。ウァンニウスがローマに保護を求めた際、時の皇帝クラウディウスはパンノニア総督に臨戦態勢を指示し、北の部族の軍がドナウ対岸に現れたそうだ。北の人々はゲルマニアとは異なる言葉を使う。ゲルマニア人は彼らをウェネドと呼び、ギリシア人やローマ人はスキタイかサルマタイではないかと言っていた。  カルヌントゥム駐屯地に来て、しばらくは訓練に加え、駐屯地の増築、住民や第10軍団との調整に費やされた。第10軍団から情報を得て、合同演習も企画した。補充兵も到着し、部隊の再編成も進んだ。我が軍団は私が入隊してから初めて定員を満たした。「少年隊」は少年ばかりではないが定員の80名いる。再編成に伴い軍団長も変わり、ローマからファビウス・プリスクス軍団長が赴任し、若い数人の軍団副官も同行していた。  我が軍団は新しい軍団長と軍団副官を迎え、百人隊長と十人隊長、百人隊副官、旗手などが全員勢ぞろいして閲兵式を行った。今回来た軍団副官たちは実戦経験がなく、戦場での成功を望む貴族や金持ちの子息ばかり。軍事指揮官としての能力を期待しても意味がない。噂によると、パルティア遠征は初めから成功が約束されている。司令官のコルブロ総督は先年パルティア王国と戦い、何度も勝っている。今回は前回より動員兵力が大きい。負ける要素がないのだそうだ。  幕僚が揃うと、移動準備が本格的に始まった。軍団は活気に満ち、私も過去に苦しめられることが少なくなり、力を取り戻した。そのような状況で悲報が舞い込んだ。その日は伝令がひっきりなしに駐屯地を出入りしていた。軍団長は全大隊長を集めて会議を繰り返した。我が中隊ではデクリウス中隊長が重大な伝達事項の発表があるからと、全ての十人隊長を集め、ギリシアに滞在中の皇帝ネロからの命令を伝えた。  「コルブロは皇帝ネロ弑逆を企て死を言い渡された。パルティア遠征は中止とする。各軍団は現在地で次の命令を待て。」  軍団にはコルブロ総督を非難する言葉が溢れた。それ以前は称賛の声ばかりだったのだが、流れが逆転した。それだけ我が軍団の皇帝ネロに対する信頼は強い。しかし、新兵の間には別の噂が渦巻いていた。皇帝ネロが放蕩の限りを尽くして国の金を使い込み、ローマ市民を苦しめ、邸宅を拡大するためにローマを焼き払い、ローマを覆う炎を眺めながらトロイ落城の歌を唄った。コルブロ総督の処刑も冤罪だという。私にはどちらが本当のことかわからない。ローマの風刺詩や商人などの話からすると、新兵たちが正しいように思えるが、表立ってそれを言うわけにはいかない。我が軍団は「ネロ軍団」、幕僚はもとより、ブリタニアで戦った百人隊長、十人隊長ほか、最下層の兵に至るまで皇帝ネロに対する尊敬の念は強い。  移動予定がなくなり、長期駐屯の準備が始まった。陣地の設営や防衛施設の更新と防衛計画の策定、部隊の割り当ての決定など、我が軍団は新たな仕事に追われた。私も担当する予定の陣地や宿舎の確認と整備、小隊員の割り当てに追われた。 一週間もすると軍団の活動が鈍りだし、再びブリタニアにいた時と同じに、繰り返しの日々が始まった。いや、あの時よりはましだ。未熟な部下を使える兵士に鍛え上げなければならない。次の出動に備えて訓練を繰り返す。それにここは帝国防衛の最前線で、ドナウ河の向こうにいる諸族がいつ攻め込んできても不思議ではない。巡回や偵察にしてもブリタニアよりも緊張感があり、手順も複雑だ。  ただ、ブリタニアと同じに森が続く風景は気が滅入る。森を見ていると故郷を思い出す。砂ばかりの土地だというパルティアへ行きたかった。木ではなく、砂ばかり見ていれば昔のことも少しは忘れられただろうが、ここは木ばかりだ。  一ヵ月もすると、軍団に緩みがみられるようになった。これに危機感を覚えた屯営長が軍団長に進言して剣術大会が開かれることになった。優勝賞品は一ヵ月の特別休暇と、特製の木剣だ。準々決勝まで進んだだけでも1週間の特別休暇が与えられる。私は真っ先に参加を表明した。気分転換になるし、父が考案してブランウェンが見せてくれた剣術を試してもみたかった。  平兵士からの参加者は少なく、十人隊長、百人隊長ばかり。軍団副官も参加している。ブランウェンの剣術は足を軽く地面につけて重心を調整してバランスを取り、相手の攻撃を誘って剣を狙う。ローマ兵は装備が重く、盾で攻撃を受けるのが基本なので、地面に足をしっかりつけて体勢を保ち、相手の攻撃の隙をついて腹に突きを浴びせる。ブランウェンが動的なのに対して、ローマ兵は静的だ。  大会は練兵場で行われた。近隣の住民も呼ばれ、中央の席に第14軍団長夫妻と、ゲストの第10軍団長夫妻、パンノニア総督夫妻が占め、その周囲に軍団副官や市民の有力者の家族が場を占めた。練兵場を囲むように観覧場が設けられて、付近住人が押し掛けてきた。剣闘場の試合がこのような感じなのかもしれない。完全に見世物だ。これだと興行師や商人からかなりの金が軍団長や軍団副官に渡ったのかもしれない。  最初は1対1の試合を同時に幾つも行い、試合が進むにつれて同時に行う試合を減らしていき、決勝戦では1試合だけを見せる形だ。鎧は身につけるが盾はなしで木剣を使う。試合の予定と結果が大掲示板に掲示される。デクリウス中隊長とアクイラ大隊長も参加している。屯営長まで参加している。  私の最初の相手は元剣闘士の新兵だ。26歳の新兵とは珍しい。ケストゥスという通り名で、ローマで人気の拳闘士の名を拝借して登場したが、うまくいかなかったと聞く。軍団兵とは戦い方が異なる。まるでブリトン人のようだ。唸り声を上げて威嚇を繰り返し、大きく剣を振り回して進んでくる。相手を驚かして怯るませようというのだろうが、実戦を潜り抜けた兵士相手では意味がない。鎧を通して衝撃が腹に届く位の深い一撃を食らわした。新兵は腹を抑えて転げまわった。私の勝ちだ。あまり腕の良い剣闘士ではない。私の部下なら剣の使い方を一から叩きなおさなければならないな。  その後は、剣を叩き落すやり方で勝ち続けた。剣を落とされた相手はあっさりと負けを認めた。どの兵も基本をきちんと守りすぎる。しっかりと足を地に着けて体勢を保ち、牽制を繰り返して相手の腹に一撃をくらわせようとタイミングを計る。相手は自身の体のどこかを狙ってくるとしか考えていない。剣を狙うとは露にも思わない。そのやり方が体に染みついている。こちらが踵を地に着けずに軽いステップで立つとそれだけで驚く者すらいた。後は容易い。わざと隙を見せ、相手が剣を繰り出したら叩き落す。その繰り返しだ。  順調に進み、決勝戦まで進んだ。最後の相手はアクイラ大隊長だ。アクイラ大隊長とは以前に何度か手合わせしたが、一度も勝てなかった。アクイラ大隊長は状況に合わせて手を変える手強い相手だ。ローマ兵特有の突きにはこだわらない。私の軽い構えに対して、アクイラ大隊長はローマ兵特有の硬い構えで応じた。しかし、大隊長の剣を叩き落せない。大隊長は巧みに剣をかわして反撃を加えてくる。最後は剣を狙うふりをし、大きく飛びのけて大隊長の脇腹を刺した。鎧を貫くほどの衝撃を与えることはできなかった。軽く突いただけだ。それでも判定で私の勝利となった。  父とブランウェンの剣術が大隊長を打ち負かすとは思わなかった。戦っている間、ずっとブランウェンの動きを思い出し、再現を試みていた。これほど強くブランウェンを思い浮かべていたのに、以前のような苦しみがない。むしろ、一緒に戦っているような気になり心が軽く、楽しかった。今まで勝てなかった大隊長に勝ったことよりも、優勝したことよりも、ブランウェンと共に戦い、二人で勝利を手にできた気分に酔えたことが嬉しかった。  私は勝ちの判定が出た瞬間に大声をあげて飛び上がって喜んだ。涙まで流していた。大隊長がひどく驚いた表情をして言った。  「ティトゥス。お前、喜ぶこともできたんだな。」  ブランウェンの死後は笑顔を見せることもなかったからか。気恥ずかしくなり、大隊長から視線をそらし、頭を下げて謝罪しながら答えた。  「大隊長に勝てたのは初めてです。それがうれしくてはしゃぎ過ぎました。申し訳ありません。」  大隊長は笑いながら答えた。  「優勝おめでとう。いや、驚いたよ。また手合わせ願いたいね。」  軍団兵と住民の拍手の中、中央の主賓席へ進み、軍団長から木剣を賜った。凝った装飾はあるが、それだけの只の木剣だ。奴隷剣闘士が自由を与えられる時にも同様の木剣が与えられると聞く。軍団長から称賛の言葉と特別休暇付与の宣言で儀式は終り、再び拍手が巻き起こった。  幕舎に戻ると私は有名人になっていた。剣術を教えてくれと頼んでくる者もいた。普段見かけない商人からも声をかけられた。ドリスコと名乗るこの商人は拳闘士や剣闘士を多数有する興行師だそうだ。私に剣術を教える師範になって欲しいという。やんわりと断り、幕舎へ戻った。幕舎には部下が待ち受けていて、祝杯になった。デクリウス中隊長やアクイラ大隊長まで来て、最後は大隊全体の祝宴に発展した。  多くの兵が飲み疲れて寝てしまったり、幕舎に戻り始め、酒宴が終盤に入ったころ、デクリウス中隊長が訊ねてきた。  「帰郷はしないのか?」  帰郷は全く考えていなかった。ブリタニアには苦しい思い出しか残っていない。それにまた、思い出に殺されかねない。そんなことを漠然と考え、答えた。  「この辺りを見て周ろうと思います。遠征が中止になった以上、ここが新しい我が家になりそうですから。それに、一ヵ月では時間が足りませんよ。」  デクリウス中隊長は何か察した様子で言った。  「そうか。まあ、色々とあったからな。新しい場所で気持ちを切り替えるのもいいことだ。」  その後、ブリタニアの話は出なかった。他の軍団兵や、アクイラ大隊長まで参加してこの地について聞き知った話で盛り上がった。結局、一晩中皆と飲み明かした。  翌日、起きたら誰もいなかった。皆、今日の勤務に出たのだろう。私は特別休暇に入るので、起こされずに捨て置かれたようだ。昨日は飲み過ぎたせいか、頭がふらつく。しかし、何をしていいのかわからない。町へ出る気にはならない。また、商人から剣闘士がどうとかの話を聞かされるのは御免だし、昨日の今日では顔を覚えている住民もいるだろう。なににつけ、面倒は御免だ。  頭を回して周囲を眺めていたら、裏山が目に入った。あの山頂には見張り台が設置されている。何度か行ったことがある。森に覆われたブリタニアにもありそうな山だ。山道から外れると戻れなくなりそうな深い森だ。以前、スィールから森で迷わない方法を幾つか学んだことがある。それを使えば迷わないだろう。 森は薬草や山菜、木材などの資材の宝庫だ。森の中に自分専用の隠し砦を作ってもいいかもしれない。父が作ったようなローマ式の砦ではなく、スィールから学んだブリトン式の待ち伏せ用の砦だ。森の中に溶け込むように、自然を生かした砦を作る。そこに、大弓や投石機を設置し、薬を作って備蓄する。敵が攻めてきた時の避難所にも使える。時間は一ヵ月もある。それだけあれば何でもできる。  ゆっくりと起き、水樽で顔を洗ってぼんやりした頭をはっきりさせた。幕舎で準備を整えた。軍務があるわけではないが、兜を被り、鎧を身に着け、剣と短剣も装備した。この姿で過ごしている時間が長いせいか、一番落ち着く。戦いに行くわけではないのだから、盾と投槍まで持っていく必要はない。鶴嘴と斧は使うことになりそうだ。それから薬を作るのに鍋がいる。医療道具も必要だ。次々と必要なものが頭に浮かび、盾と投槍以外の装備は全て持っていくことにした。いっそのこと盾も持っていこうかと思ったが、さすがにやり過ぎと思い、おいていくことにした。ほぼ完全装備で、大した計画もない思い付きを実行すべく山へ向かった。
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