8.歌

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8.歌

 山道の入り口に来ると小さな石碑が立っていた。軍団兵が森の神シルウァヌスに捧げた石碑だ。道側の面にシルウァヌスが彫りこんである。右手に鎌、左手に壺を持ち、トガを着、右側に祭壇があり、左足元に犬が座っている。右側面には文字が刻んである。 「シルウァヌス神よ。第15アポロ軍団伝令ガイウス・ウァレリウス・マクシムスが喜びをもって設置し誓約を成就す。」 ローマの神がパンノニアの山を支配する宣言、ローマ支配の象徴だ。山道を進むと、似たような小さな石碑がいくつもある。女性を描いた石碑もあった。左手に弓を持ち、右手で矢筒から矢を出そうとしている。狩りの女神ディアナに捧げられたものだ。 「ディアナ女神よ。アウレリウス・プラトゥス・ウァロが喜びをもって設置す。」 山腹までは山道を行き、その後は道から外れて森へ入った。鳥の声に満ち、何かが動き回る気配がする。人ではない。ゆっくりと音を立てないように荷物を下ろした。気配のする方へ行ってみると、シカが草を食んでいる。こちらに気が付いていない。投槍を持ってくればよかった。ここから走り出しても捕まえるのは到底むりだ。投槍なら何とかなったのに、もったいないことをした。それにしても、ここはいい狩場になりそうだ。いや、投槍を持ってこなくてよかった。たぶんあれは森の神シルウァヌスに捧げられた鹿で、狩ったらキュパリッソスのように木に変えられてしまう。  しばらく進むと、水音が聞こえた。川があるようだ。砦を作るにしても水場が近い方がよい。音の方へ向かって歩いたが、かなり距離がある。到着した時にはだいぶ日が高くなっていた。森が開けた沢を流れる小川で、流れが速い。これなら飲み水として使えそうだ。川縁から少し離れたところに平らなところがある。周囲は木で隠れていて、日の光も届かない。小川の少し上流がちょっとした滝になっている。滝の近くには洞窟まである。いざという時の避難所になる。今日はついている。理想的な場所だ。 洞窟の入り口には人物が幾つも彫りこまれている。山道にあった石碑と同じように見えるが、文字がない。像の雰囲気もだいぶ異なり、こちらの方が単純な図柄だ。入り口の右にはトガを着て右手に鎌、左手に小麦束を持つ男性の後ろに三人の女性が付き従った彫刻がある。左には長髪の女性三人が彫られている。二人の女性が中央の女性を持ち上げている形だ。その隣には犬を従えた男性もある。周囲に散らばる岩を見ると、そこにも似たような男女の彫刻がある。かなりの数だ。 洞窟の中に入ると、壁面にも多数の彫刻がある。パンノニアの原住民でこの辺りを本拠にしていたアンディゼティイ族の神を描いているのかもしれない。だとすると男が森の神ウィダズス、女が森の女神タナだろう。付き従う女性たちは森の精霊だろう。ここは神域かもしれない。  洞窟を出て広場へ行き、鎧を脱いで広場を覆う木の一つに登った。ここは見通しがいい。山麓の駐屯地も、その先の市まで見える。先のほうまで行けば、木に登らなくても下が一望できそうだ。しかし、砦を作るのなら木々に隠れたこの場所がいい。この木の上に見張り台を設置すれば視界については問題ない。問題があるとすれば葉が落ちる冬季だろう。それも考慮に入れ、木と木の間に溶け込むようなやり方を考えなければならない。壕も土塀も設けず、木と枝葉を中心にして防御力よりも隠蔽性を重視した作りにした方がよさそうだ。さっきの洞窟にも陣地を作るといいかもしれない。  広場の真ん中で仰向けで寝ころび、様々な空想を広げている内に心地よい気分になり、いつのまにか眠っていた。鳥の声が騒々しくなり、目が覚めた。既に日が傾いていた。鳥は日が沈むころになると鳴き声が、悲し気に変わる。声も大きくなり、仲間との鳴きあいも増える。そろそろ、駐屯地に戻らないといけない。腰を上げて装備を背負い、明日また来ることにして駐屯地へ引き上げた。  翌日は早朝から山腹の沢に来て、砦の具体的な構造を考えた。必要な資材は何か、どう調達するか、木材は無数にある。他の資材は軍団出入りの商人を通して調達すればよい。薬草から薬でも作って売り捌けば資金は容易に確保できる。しかし、いざ作業に入ろうとすると、父やスィールに教えを受けた記憶や、ブランウェンと森を散策した記憶が蘇り、気力が失われる。軍務で作業しているときは平気なのに、軍務外とはいえ同じ作業をしようとしているだけなのに、思い出が私の力を奪う。ブランウェンの幻が木々の間を彷徨い、立っているのも辛くなった。  そういえば市で琥珀を商う商人から、琥珀と共に北からやって来て、森に住み着いた精霊の話を聞いたことがある。美しい姿で人を惑わす森の精霊レスニー・パナと、水辺で人を死へ誘う水の精霊ヴォドニー・パガだ。だから、むやみに森の奥へ行かない方がいいと。どの精霊かはわからないが、魅入られたようだ。 レスニー・パナは鳥の鳴き声に合わせて踊るのが好きで、人を踊りに誘い死ぬまで踊らせるという。だとするとブランウェンに見えているあれは鳥の演奏で踊るレスニー・パナかもしれない。下手に立ち上がると踊りに巻き込まれる。無理に何かをしようとしても無駄な気がし、木を背にして座り込み、空を仰ぎ見ていた。いっそのこと、一緒に死ぬまで踊る方が楽しいかもしれない。 ブリタニアでも似た話を聞いた。様々な精霊、バンシー、メロウ、リャナン・シー、シーオーク。20年以上住んでいたのに精霊のような女には会えたが、精霊には会えなかった。いや、私の周りを漂う幻はブリタニアから憑いてきた精霊かもしれない。スィールの家に宿るバンシーが行き場を失い、嘆きに来たのかもしれない。リャナン・シーが心の臓に食らいつこうと、憑いてきたのかもしれない。  母からゲルマニアの森の精霊アールヴ、水の精霊ニクセや光り輝く魔女ヘイズの話や、神木ユグドラシルと根元のウルズの泉、そこに集う三人の運命の女神ウルズ、ヴェルザンディ、スクルドの話を聞いた覚えがある。森は神や精霊の集う場所で、ブリタニアもゲルマニアもパンノニアも関係ないのだろう。  どこからともなく歌声が聞こえてきた。落ち着いた感じのゆっくりしたテンポだ。ブリトン人の速いテンポの歌でも、軍団の硬い感じの歌でもない。子守歌にしては、荘厳な感じがある。女性が一人で歌っている。ただ、声の感じが人の声でないような不思議な響きがある。何語かわからない。知らない言葉だ。歌声は洞窟の方から聞こえてる。 レスニー・パナが誘惑しているのだろうか、ヴォドニー・パガがブランウェンの元へ導こうとしているのか。それともブリタニアから憑いてきたシーオークが精霊の世界へ引き込もうとしているのか。歌声からすると、泣き女バンシーが嘆いているようには聞こえない。ローマの学芸神メルポメネの娘シーレーンが死の歌を奏でているのかもしれない。死へ誘うというならそれでも良い。歌声に誘われるまま、兜を脱ぎ捨て、剣はおろか短剣すら放り出して洞窟の方へ向かって歩きだした。  洞窟に入ると、一人の女が入り口を背にして立っていた。両腕を広げ、洞窟の天井を仰ぎ見るようにして歌っている。洞窟の入り口から射す光が女に当たって反射し、洞窟の暗さと相まり、黄金の髪と長袖の白い服のトゥニカ・マニカータが輝いて見えた。神々しい姿に目を奪われた。レスニー・パナ、或いはブリタニアの泉の貴婦人の伝え聞く姿そのものだ。足に鱗も鋭い爪もないからシーレーンではなさそうだ。いや、ここは森の神の神域だから、現地の森の女神タナが降臨したのかもしれない。  女は私の存在に気が付き歌を止め、怯えたように振り向いて私を見た。私は両手を軽く上げ、怯えないように合図して言った。  「すまない。怪しい者ではない。歌声に誘われて来てしまった。第14軍団の兵士だ。武器は持っていない。」  女は私を凝視したまましゃがみ込んだ。まだ私を疑っている様子だ。言葉が通じてるのか不安になった。私はなだめるように言葉を続けた。  「君は精霊なのか?」  そう尋ねると、女は手を口に当てて笑い出した。私は突然の笑い声に呆気にとられた。女は笑い声を抑えて答えた。  「違いますよ。兵隊さんは夢想家なんですね。」  澱みのないラテン語だ。言葉が通じるか不安だったが、言葉が通じることで幾分安心した。女は笑顔で私に近づいてきた。よく見ると、髪は琥珀のような色だ。やはり琥珀と共に来たレスニー・パナか。着ているトゥニカ・マニカータは灰色で汚れも目立つ、歳の頃は二十歳くらい。どことなく、ブランウェンに雰囲気が似ているが、より女性らしい体型だ。ブランウェンも生きていればこのような姿になったのだろうか。女は私のすぐ近くまで来て挨拶した。  「アダです。」  対応できずに女を見つめていた。琥珀色の少しウェーブのかかった髪は後ろで馬の尾のようにまとめられている。肌は褐色、いや、ブランウェンに比べれば褐色に近いが、ほぼ白と言っていい。瞳がブランウェンの髪の如き黒だ。女が手を出すのを見て、ようやく反応し、握手をした。  「第14軍団のティトゥス・カエリウス十人隊長です。」  握手を終えると、アダは近くの岩に座り、隣を手で叩いて座るよう促した。私はアダから少し離れて座った。密着して座るのには抵抗があった。アダは私の目をしっかりと見据えて言った。  「神に捧げる歌の練習をしてました。」  私はアダの顔を探るように見つめていた。まだ、人以外の何かではないかと疑う気持ちが残っていた。ヴォドニー・パガかシーオーク、シーレーンにでも化けて死へと誘ってくれてもいいのだが、などと考えていた。アダは私のそんな様子にお構いなく訊ねてきた。  「ティトゥスさまは、軍の御用でここにいらしたのですか?」  私はうつむき、頭を軽く振って答えた。  「いや。一ヵ月の特別休暇を貰ったが、やることがなくてね。ここに砦でも作ろうかと思ってきたんだ。」  この答えにアダは噴出し、笑いを堪えながら言った。  「お一人で砦を作るのですか?」  何が可笑しいのかわからず、私は困惑した。よい兵士は何でもできなければならない。一人で砦を作る位できなくてどうする。父ならそう言ったろうが、私は別の言葉を選んでいた。  「可笑しいですか?」  アダは大きくうなずいて答えた。  「はい。」  私が困った顔でアダを見つめていたら、アダは笑い出しそうな顔から優しい感じの笑顔に変わり、言葉を続けた。  「やっぱり、ティトゥスさまは夢想家ですね。」  私はなぜか楽しくなり、おそらく綻んだ顔で話をしていたかもしれない。自分のことは砦の計画以外はあまり話さないようにして、アダのことを訊ねてばかりいた。  アダはユダヤ出身で、7年前に母が亡くなり、父エノクと共にユダヤを出て、第15「アポロ」軍団所属の百人隊長グナエウス叔父を頼ってカルヌントゥムへ来た。エノクはグナエウスの助けを借りて居酒屋を立ち上げ、アダはその居酒屋で働いている。5年前に第15軍団はエジプトへ移動し、現在はユダヤで戦っている。第15軍団の代わりに来たのが第10軍団だ。  二人で話しながら山を下り、エノクの居酒屋へ行くことにした。アダはラテン語、ギリシア語、ユダヤの言葉のヘブライ語を解する。歌っていたのはヘブライ語の神に捧げる聖歌だ。依頼されて本の複製も作り、その過程でたまに自分の分の複製も作る。ただ、一冊全体を写した物は持っていない。その一部を書き写した物だけだ。  その中で最近書き写したユダヤの医者の話は新鮮だった。言葉だけで病気を治し、死者すら蘇えらせる。アダによると、その本は何かの物語の要約か断片のようで、話が飛んでいたり、矛盾も多い。薬や治療法の話がなく、道徳や生活習慣の話ばかり。もしかすると、元となった物語の中には治療法の話があるのかもしれないが、アダの見た断片にはない。  似たような話を軍医から聞いたことがある。死んでいるように見えても、生きている場合がある。心の蔵が止まっていても、気が付けば動き出す。火葬に付している最中に蘇った例もある。一見すると体の病気に見えるが、精神の病で体に症状が出ている病人もいる。精神の病は休息と会話を通して回復させることが可能だ。呪文で病気が治ることもある。残念なことに私はそのような病気や蘇りを見たことがない。臆病風に捕らわれた兵を叱咤激励して正気に戻すのに似ているのかもしれない。  しかし、このユダヤの医者の「人の血を飲み、人の肉を食え。」という教えは健康の為だとしても実践する気になれない。たしか、ギリシアの医者が人の血肉に薬効があると書いていた。このユダヤの医者も同じ系統の医術を収めているのかもしれない。癲癇には人の血肉が効くともいう。効いたとしても使うべきではないだろう。  居酒屋に着くと、男が店の掃除をしていた。私を見ると、驚いて声を上げた。  「チャンピオン!アダ!この方と知り合いなのか?」  アダが驚いた様子で私の顔を覗き込んで、訊ねた。  「チャンピオン?」  私はアダの顔を見つめた。疑問と期待が入り混じった表情で、口が綻んでいる。期待に応えるように私は答えた。  「軍団の剣術大会で優勝したことじゃないかな。たくさんの観客がいたからね。」  男が走ってきて、私の右手を両手で握りしめ、笑顔で話しかけてきた。  「チャンピオン。初めまして、この店の主人のエノクと申します。アダの父です。」  アダが笑い出した。私がアダの方を見ると、アダはエノクへ向かって話し出した。  「お父さん、チャンピオンがお困りじゃない。」  エノクが恥ずかしそうに私の手を握っていた両手を引っ込めた。その様子を笑いながら、見ていたアダが私に言った。  「何か食べ物を用意しますね。朝から何も食べていないのでしょ。」  アダが店の奥の方へ行くと、エノクが慌てて後を追いかけて言った。  「アミナエアの葡萄酒で作ったバラ酒があっただろ。ルカニアの腸詰もまだ残っていたな。」  アダにエノクを加え、食事をしながら話をした。ユダヤの医者の話になると、エノクが間違いを訂正するように話した。  「あの方は医者ではなく預言者ですよ。それから、預言者の言う人の血肉は説明するより、ご馳走した方が早いでしょう。」  人の血肉を調理するのがユダヤ流なのか、いや、そのような名の料理かもしれない。想像が広がり好奇心を刺激されたが、それらを悟られないようにして言った。  「それは遠慮したいな。」  エノクは私の言葉に構わず、食卓のパンを一かけら取り、コップにワインを注いで、私の前に置いて勧めながら言った。  「これが預言者の言う血肉ですよ。本物の人の血肉じゃないですよ。パンもワインも食べてしまえば体に取り込まれて血肉になりますからね。」  私は納得して頷いていた。確かに、パンもワインも食べれば血肉になる。ユダヤの預言者はギリシアの哲学者のような面白いことを言う。話を聞いている内に、一つの疑問が湧き、訊ねてみた。  「エノクさんと、アダさんはユダヤ教徒ですか?」  二人は驚いた様子で、次には笑い出し、エノクが答えた。  「まさか、違いますよ。私たちは皇帝に忠誠を誓うただの属州民ですよ。」  エノクは真剣な表情になり、身を乗り出して話した。  「ユダヤ教徒は他の神を認めません。ローマの神だって例外じゃないんです。そんな神を崇めていたら、商売あがったりですよ。」  昼頃まで三人で話した。もっぱらエノクが話し、アダが補足して私が訊ねてばかり、私自身の事は話さないようにした。夜に再び店へ行く約束して駐屯地へ戻った。  特別休暇の間、朝は洞窟でアダの歌を聴き、エノクの店で朝食をとり、駐屯地へ戻って部下や腕に覚えのある軍団兵相手に模擬戦闘を行い、アダから借りた本を読んだ。夜にはエノクの店で常連と飲んだ。いつしか砦を作ることは頭から消えていた。私がエノクの店へ行くようになると、部下やデクリウス中隊長やアクイラ大隊長も来るようになり、休暇が終わるころにはエノクの店は第14軍団の溜り場になっていた。剣術のチャンピオンが来ると噂になり、野次馬根性の強い住民も訪れるようになった。  休暇が終わった後も早朝には洞窟へ行き、アダの歌を聴いた。彼女の歌声は過去を忘れさせてくれる。洞窟から射す光に照らされた彼女の姿は神々しく、思考が止まり、現在の自分すらも消してくれる。この早朝の僅かな時間が最大の喜びだ。私は再び心地の良い居場所を手にしようとしている。未来に対する希望も湧いてきた。  この頃からブランウェンの夢を見るようになった。毎晩ではないが、時と共に増えていく。今まで夢を見ることが殆どなく、見ても直ぐに忘れていたのに、ブランウェンの夢は強烈な印象を伴い、忘れられない。  破壊された父の砦の門前にブランウェンが立っている。彼女は私に背を向けて泣いてるようだ。髪を下ろし、黒髪が風に流され揺らいでいる。私は彼女に近づき、肩に手を置き話しかける。  「どうした?」  ブランウェンは振り向く。顔は青白く、涙に濡れている。彼女は私を見つめ、黙って立っている。彼女の左脇腹から血がにじみ出て、私は戦慄を覚え、言葉も出ずに立ち尽くす。不意に彼女の顔が私の顔に近づき、彼女の唇が私の唇と重なりそうになる瞬間、彼女が何かを囁く。ここで目が覚める。目覚めると冷汗でシャツが濡れ、大きな不安に襲われる。 やはり、私は私を許していない。アダとの出会いを認めない。それとも、ブリタニアからついてきた精霊のバンシーか、ゲルマニアの夜の女神ノート、黒髪の夢を司る女神が私に警告に来たのだろうか。アダに近づくことはブランウェンに対する裏切りになると伝えたいのか。さもなければ、私をブランウェンの元へ誘おうとしているのだろうか。
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