9.皇帝の死

1/1
前へ
/20ページ
次へ

9.皇帝の死

 ティベリウス・シリウス・イタリクスと、マルクス・ガレリウス・トゥルピリアヌスが執政官、皇帝ネロ15年目の年(西暦68年)。  カルヌントゥムへ移動してきた直後から不穏な動きが伝えられていた。ガリア・ルグドゥネンシス総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスが皇帝ネロに対する反乱を企ててるという。移動して1年目にウィンデクス総督が蜂起し、呼応するようにヒスパニア・タラコネンシス総督セルウィウス・スルピキウス・ガルバが反旗を翻し、ルシタニア総督マルクス・サルウィウス・オトも反乱軍に合流した。ガルバは皇帝ネロに代わって自身が皇帝になると宣言した。  ガルバ総督が反旗を翻したことでカルヌントゥム駐屯地は緊張に包まれた。我が軍団は皇帝ネロに対する忠誠心が厚い。一方、第10軍団はカルヌントゥムへ移動する前はヒスパニアでガルバ総督の指揮下にあった。ガルバ総督は軍内でも支持者が多く、元部下は総じて皇帝ネロに対するよりもガルバ総督に対する忠誠心が大きい。 両軍団は見張り台や前哨地の部隊を駐屯地へ集結させ、戦いに備えた。我が軍団の兵は実戦経験や「軍神マルス」の称号に誇りを持ち、勝利を確信していた。第10軍団は実戦経験がなく、我が軍団に対し、強い警戒感を抱いていた。我が軍団は積極的に斥候を放ち、陣地を占めていくのに対し、第10軍団は駐屯地に全軍が立て籠もり動こうとしない。たまに町に出て、小競り合いをするくらいだ。  私はアダの歌を聴けないことを残念に思いながら、大きな戦いに期待を膨らませていた。戦いになれば、戦に忙殺されて思い出に苦しめられることはない。後は皇帝ネロの命令を待つばかり。  そんなある日、駐屯地警護の任務中にデクリウス中隊長が見回りに来て話しかけてきた。面白い話を仕入れたようで笑いだしそうな顔をしている。  「やぁ、ティトゥス。お前、死んだことになってるぞ。」  私は言っている意味が解らず質問を返した。  「どういうことですか?」  デクリウス中隊長は面白そうな顔をして答えた。  「第14軍団のチャンピオンが第10軍団員に殺されたっていうんだよ。我が軍団の兵はチャンピオンどころか、一人も死んでないのにな。可笑しいだろ。」  私は情けないないという気分になり、緩んだ顔で答えた。  「第10軍団は余裕がなくなってるんですかね。むこうもまだ、誰も死んでいないはずですよね。」  デクリウス中隊長はあきれた様子で言った。  「あいつらビビッて駐屯地に籠ったままだからな。たまに町に出てくる奴もいるが、うちの兵隊に袋にされて逃げてばかりだ。そんな噂でも流さないと士気を保てんのだろ。」  その話を聞いて、第10軍団と本格的に衝突する可能性はないと確信した。第10軍団はガルバ総督の命令でも我が軍団に挑むことはないだろう。奴らにそれだけの闘志はない。我が軍団は皇帝ネロの命令なく動くことはない。我らの忠誠心はそれだけ強い。  他の地域で状況が動き出した。ゲルマニア・スペリオル総督ルキウス・ウェルギニウス・ルフス率いる3個軍団がウィンデクス総督の私兵軍を討破り、ウィンデクス総督は自決した。残るはガルバ総督の第6「常勝」軍団だけだ。オト総督は固有の兵を持たず、軍団もいない。第6軍団は長い間、ヒスパニアに駐留し、実戦経験の殆どない軍団だ。「常勝」の称号を受けたのも百年も前で、今も常勝の称号に似つかわしい実力を備えてるとは思えない。  軍団員は皆、次は我が軍団の出番だと期待し、皇帝ネロの命令を待っていた。ローマへ進軍して皇帝ネロと共に戦うべきだと主張する者もいた。しかし、命令の代わりに悲報が舞い込んだ。皇帝ネロが近衛軍団と元老院に見捨てられて自決した。ガルバが第6軍団を率いてローマへ入場し、元老院はガルバを皇帝として承認した。怒りと悲しみが我が軍団を覆った。一部の兵は司令部へ押し掛けて軍団長に対し、なぜローマへ進軍して皇帝ネロを守ろうとしなかったのかと、詰め寄った。  結局、我が軍団は元老院の布告を受け入れ、臨戦態勢を解除したが、第10軍団との間に横たわる不穏な空気が晴れることはなかった。皇帝ガルバの治世が始まると、第10軍団にヒスパニアへの移動命令が出た。余計なトラブルを恐れてのことかもしれない。あるいは子飼いの兵力の温存を図ったのかもしれない。表向きの理由は第6軍団がローマへ移動した事で生じた穴を埋めるためだという。  騒動の間、アダに会えなかった。第10軍団が去り、駐屯地も落ち着きを取り戻し、ようやくエノクの店に行くことができた。アダは私を見るなり、飛び出して来て抱き着き、大声で泣きだした。何が起きたかわからず、彼女の頭を撫でていた。娘の泣き声を聞きつけたエノクも飛び出し、私を見て驚き、事情を説明してくれた。  「君が死んだと噂が流れたんだよ。町でも斬り合いが何度も起きたからね。」  あの噂がそこまで広く流れていたことに驚いた。私は軽く頷いてエノクに答えた。  「ご無沙汰して申し訳ありません。私は駐屯地の警備を担当していたので、町には来ていません。斬り合いにも出会いませんでした。事態が落ち着くまで、駐屯地を出られなかったのです。」  アダが落ち着くまで、アダの頭を見つめて撫でていた。アダは落ち着いてくると、私の顔を下から見上げるようにして何度も言った。  「よかった。よかった。」  アダの肩を抱いて店の奥へ導いて話をした。エノクも心配そうな様子でついてきた。  「もう大丈夫だ。皇帝ガルバで落ち着いたし、第10軍団は去った。戦う理由はもう何もない。今まで通りの生活ができる。また歌を楽しめるんだよ。」  アダは笑顔になり、顔をこすりながら返事をした。  「いくらでも。もう聴きたくないって言うまで何度でも歌うから覚悟なさい。」  私はアダの顔をじっくり見ながら答えた。  「ああ、やになるくらい聴かせてくれ。」  アダの様子に安堵した。戦いは終わりだ。このまま平穏な日々を過ごしたいと、思い始めていた。ただ、アダに対する思いが強くなるにつれ、夢に出てくるブランウェンの顔が浮かび、罪悪感と不安な気持ちも強くなる。  再び元の生活が戻ってきた。朝は洞窟でアダの歌を聴き、日中は駐屯地での訓練と巡回、夜はエノクの店だ。たまにエノクの店で料理の腕を振るう。エノクを助けるためではなく、父の教えを実践するためだ。同僚からは軍団兵が料理をするのかと驚かれもしたが、私も父に倣って同じ答えを返していた。  「よい兵士は何でもできなければならない。料理も例外ではない。」  私の生活は落ち着きを取り戻していたが、ローマはまだ安定を取り戻せずにいた。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加