そこが、いい。

2/8
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
苛立ちと共に発した言葉に、学生は(おもむろ)に首だけ振り返った。 「……あ、こないだの」 「そう! こないだの。おたく、法学部?」 「いや」 やっぱりな、と昴は納得する。 人数こそ多かれ、同学部の学生とは講義が重なるため、自然に見た顔が増える。 しかし、見れば忘れようもないこの顔は、他の講義には現れない。 この【日本外交論】は選択授業だから、他学部がいるのも頷ける。 「名前は?」 「……後嶋(ごとう)」 「一年次?」 「そう」 「なんで毎回同じ席にいんの?」 「え?」 後嶋は、なぜかひどく無防備な表情で昴を見詰めた。 「……なんでここにいるの、じゃなくて?」 「は?! なに言ってんだよ。なんでこの席を取るんだって話!」 「それは、ここが一番いいから。ここはあんたの席なの?」 「そう! 俺の特等席! それから名前は戒能(かいのう)!」 「なんで特等席?」 至極当然の質問に、昴は胸を張って、いかにこの席が貴重かを力説する。 その回転する口元を細めた目で眺めていた後嶋は、「でも」と小さく溢した。 「でも、俺もここが特等席。この角度と距離が、一番安心するから」 「は?! 安心ってお前、なんだそりゃ」 噛みつく昴を意に介さない様子で前に向き直った後嶋は、それきり振り返らなかった。 次の週は、チャイムと同時に教室を飛び出し、全力で走った。 肩で盛大に息をつきながら教室に飛び込むと、 「……おっ、お前はっ!! まさかこの教室に住んでんのかっ!?」 定位置の黒い後頭部に思わず叫んだ。 「まさか」 こちらを一瞥して冷たく呟く後嶋に突進した。 「分かったぞ! さてはお前、ひとつ前に講義が入ってないな?! で、俺に嫌がらせするためにめちゃくちゃ早く来てるだろ!」 「嫌がらせ……。そんな稚拙な犯罪に手は染めない。それに、あんたがこの席を狙ってることは、こないだ知ったばかりだし」 「あんたじゃねー! 戒能だっ!」 「あ、ごめん。戒能が」 思いの外心苦しそうに訂正する後嶋に、昴は面食らって頭を掻いた。 興奮が冷めると、次第に恥ずかしさが襲う。 なにをこんなにムキになっているのだろう。 後嶋の真後ろに、引力に任せて着席した。 恐らく本当に、嫌がらせでも何でもないのだろう。 自分が拘るように、後嶋にも何か目的があって、この席を取っている。 それが、知りたい。 「なあ。先週言ってただろ? この席が一番いいって。安心するって。何が? 何に?」 机に突っ伏して訊ねると、後嶋は通路側に身体を向けて、思案するように右手を顎に添えた。 「それは、企業秘密。そっちこそ、授業に集中できるとか以外に、何かありそうだけど? 授業なら、別にそこでもいいし、その後ろでもいい。要は、前列中央の出入口側の端がいいんだろ」 「そ、それは」 途端に言葉に窮する昴である。 確かにもうひとつだけ目的があった。 この授業でしか見たことのない、他学部の女学生。 真っ黒なストレートの髪を背中に流し、日光と訣別したかのような白い肌。 講義が始まる直前に、まるで吸い込まれるように入ってきて、必ず一番前の入口の真横に座る。 凛とした顔を真正面に向けて、手元だけをひたすら動かす彼女。 この席から見える彼女の横顔に、昴は引き込まれていた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!