そこが、いい。

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そこが、いい。

アルバイトに明け暮れた初めての夏期休暇明けの講義は、どの教室も浮き足立っていた。 マイク片手にプロジェクターで解説する教授横目に、私語に勤しむ学生達。 このバカンスに何をしたかを、精出して報告し合っている。 (ああ本当に喧しい。お前ら何しに大学来てんの?) (すばる)は、大学の中でも広い教室の前列中央付近で苛立っていた。 もっともこの怒りは、大元の怒りに附随したおまけのようなものだ。 昴は、自分の席から左斜め前の、黒い後頭部を睨み付ける。 この春入学してから、大学の講義というものを、いかに能動的に受けなければならないかを知った。 自分が身に付けようと欲しなければ、講義に殆ど意味はない。ゼミの担当でなければ、自分の名前を覚えている教授などいない。 4年間高い学費を払って通うのに、ここで何かを手に入れなくてどうする。 昴は常にそう考え、教室の席にこだわっていた。 教授の声がはっきり聞こえ、黒板やプロジェクターの文字がしっかり見え、尚且つ、講義が終わればすぐ退出、或いは教授に質問しに行ける場所。 映画館の配席に似たこの教室では、通路を挟んだ前列の前から四番目、中央の左端。 どの講義にも時間に余裕を持って向かい、教室は違えどほぼ同じ位置の席を選んでいた。 ところが。 この講義だけは、始まって未だ一度も、その席を確保出来ていない。 必ず同じ学生が、昴より先に座っているからだ。 「……あいつ」 一体いつこの教室に現れるのだろう。自分が来る、講義開始10分前の時点では、既に座っている。 ひとつ前の講義の関係上、急いでもそれが限界なのだ。 90分の講義の間、何度も睨んだ黒い後頭部を再び眺めて、ふと気が付いた。 そういえば、あの学生の顔を見たことがない。もう何度も講義を受けているのに。 あの席より前は、一番前で映画を観る感覚で首を痛めるため、座らないようにしているからか。 講義終了のチャイムと同時に、昴は立ち上がって走った。 同じように、スッと席から通路に滑り出た学生の背中を追う。 一度追い越し、目の前で振り返ると、パチンと目が合った。 「………」 「………」 「………なに?」 「え?! な、何って………」 振り返った上に、立ち塞がる形になっていた。 妙に慌てて背筋を伸ばし、怪訝に眉をしかめる学生を、ここぞとばかりに観察した。 表情の読めない真顔。韓国のアイドルみたいにこざっぱりしているが、愛嬌の欠片も見当たらない。 でも、何度会っても覚えてもらえない平凡な顔の自分と比べれば、妬むに値する顔立ちだ。 「何か用? そろそろ退いてくれる?」 「えっ、ああ、悪い」 何も言えずに場を空けると、学生は一瞥だにせず去って行った。 何となく敗戦した気がした。 戦ってもいないのに。 翌週の講義では、チャイムと同時に走って教室に向かった。 後方の入口から覗くと、目的の席には既にあの学生の頭があった。 「……おいおいマジかよ」 よろよろと階段席を降りながら、まだ閑散とした教室に足音を響かせる。 学生の真後ろの席に落ちるように座って、背後から声を掛けた。 「なあ、おたく、法学部?」
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