初雪の下で

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 「俺が伊吹さんの手術を行います。俺なら確実に救うことが出来るので...だから、」  駆け足になりながらまひろは名乗りを上げた。自分なら救えると、確信していた。  しかし———  「だめだ!お前は元々手術の予定があるだろう!!お前が優先するのはその手術の方だ!」  「ッ、ですが見たところ、伊吹の状態は悪い、的確な手術を行わなければ———」  「いいから自分の持ち場に戻れ!!相手は政治家なんだ!救いたい気持ちもわかるが病院側のことも考えてくれ!」  「そ、それでも俺は...——— 伊吹!動くな、動いたら出血が...」  利己的な病院側とのやり取り。どちらも引かない状態であったが、それは伊吹がまひろの方へと手を伸ばしたことで中断された。  「おれ、は...大丈夫...心配するな...」  かすれた声。それは担架を運ぶ車輪の音でかき消されてしまいそうなほど小さなものだった。  それに対し、まひろは走りながらも、伊吹の口元へと耳を傾ける。  「あいしてる...昔も、いまも...っ、おれのすべてはまひろだけ...」  それはまひろだけが聞こえた、まひろだけに向けられた言葉。初めて聞いた、伊吹の気持ちだった。  瞬間、興奮してドクドクと鳴っていた心臓がまるで鷲掴みにされたように竦む。  「ごめん...苦しめてばっかで、ごめんなぁ...」  「...俺だって昔からずっと...お前だけを、」  謝る伊吹の目に浮かぶのは涙だった。しかし、まひろの掠れたその言葉を聞いて微笑みを浮かべた。  「すぐにお前のところに戻ってやる!まだまだ聞きたいことは沢山あるんだ、だから...だから、絶対に死ぬな!」  そういいまひろは伊吹を見送った。  芽生えた感情のままにまひろは自身の持ち場に戻り手術を始めた。  ——  ————  ——————  手術は的確であり、また迅速であった。その結果、予想以上の速さで手術を終了させた。  しかし、まひろには休む暇はなかった。すぐに伊吹のいる手術室へと向かう。  伊吹の体の状態から、手術は長丁場になるものだとわかっていたからだ。  — それなのに  手術中を知らせるランプは既に消灯していた。  「あれ...嘘だよなぁ。あの傷なら、そんなすぐには終わらないだろ...」  まひろの額に汗が流れる。手術室へと近づくにつれ冷や汗の量は増え、扉に手をかけた瞬間、どっと手に汗を掻き掌が湿った。  そして中に入れば、心停止を知らせる機械音がまひろの耳を犯した。  「伊吹、遅くなってごめんなぁ、」  しかし、まひろは何事もなかったかのように、伊吹に近づき手術を始めようとする。  「まひろ先生...」  「手術の状況は?手短に教えて」  未だに心停止の音が鳴り響いている。人工呼吸器も働いていなかった。  「伊吹、安心しろぉ、俺ならすくえる。体中痛いだろ、早くなおして...やるから、」  まともに呂律が回らない。上手く話せない。  その場にいた者は誰しもが口を堅く閉ざした。否、何も言うことが出来なかった。  「また、お前は...そうやって俺をおいていくのか...」  溢れる涙を、まひろは止めることが出来なかった。  「嘘つき!!人殺し、この人殺しめ!!あなたは夫を見殺しにしたのよ!救うって...救うって言ったのに、」  キンキンとした、高い声。ヒステリーなその声はまひろを責め立てる。  “すみませんでした”  そんなまひろの口からは、感情のない、機械じみた声しか出なかった。何度も何度も何度も、繰り返す。  女はまひろの胸を強く叩き続けた。隣に居た小さな子どもは泣きじゃくっている。  悲痛な2人の声は、すでに死んでいたまひろの精神をさらに追い込んでいった。  「返して!!伊吹さんを返してよぉ...」  最早、それは八つ当たりでしかなかった。逃亡した犯人に向けることのできない怒りを全てまひろにぶつけていた。  そうしているうちに駆け付けた医師や看護師によって、まひろは女から離された。  覇気のない顔。黒く濁った瞳。誰しもがまひろを心配し、温かい言葉をかけた。しかし、それらも今のまひろに届くことはなかった。  ふらふらと目的もなく院内を歩く。未だに処置の終えていない重軽傷者がいたが、まひろは目を向けることなく歩き続けた。  「雪か、」  ふと、外を見れば寒空の下、今年初めての雪を見た。ふわり、ふわりと降る雪はとてもきれいに見えた。  そうして求めるかのようにまひろは目の前にあった外へと続く扉を開ける。  開けた瞬間、冷たい風が頬を掠めた。そこは屋上だった。舞い降りる雪が地面に転々と染みをつくっていく。  「また、初雪か...本当思い出深いな、」  初雪の下で伊吹と付き合い、その2年後同じ初雪の下で別れを告げられた。  まひろの体は、音もなく再び歩み始めた。そうして向かう先はただ一つ——— フェンスの外側であった。  あと一歩踏み出せば、そこはもう自由の世界だった。苦しみも何もない。  伊吹のいないこの世界に未練などなかった。  そのまま、目蓋を閉じればゆっくりと体が前へ傾いていく。  「 ま ひ ろ 」  「...ッ、伊吹、」  だが、寸前で愛しい声がまひろを呼び止めた。まさか、と思い後ろを振り返るが、そこには誰もいない。  まるでまひろの死を止めるかのように、聞こえた声。  辺りは静寂に包まれ、雪がしんしんと降り始める。まひろはごくりと唾を飲み込み、深呼吸をして笑った。  「もう、おいて行かれるのはごめんなんだ」  そうして自身の体を躊躇なく空中へと投げ出した。  その時、頭の中を巡ったのは、伊吹との楽しく幸福に満ちた思い出だった。辛く、苦しいものなど一つもない。  ― あぁ、幸せだ  視界に映る屋上が遠くなり、遂にはドン、と鈍い音がした。  灰色の空に真っ白な粉雪。しかし地面に散るのは真っ赤に染まったもので。  それでも最期、その口元には微笑みが浮かんでいた。  そしてまひろは初雪の下で伊吹の背中を追いかけた...————    end.
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