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笑顔
20――年。8月10日。それは俺があいつに好きだ、と告白した日。
そして次の月の9月10日。それはあいつが俺に好きだ、と告白した日。
客観的には両想いになった俺たち。
だが、俺は差し出されるその手を素直に取ることができなかった。
「なぁ、好きなんだ」
「お前のことが好きで...好きで、さ」
「だから、ずっと一緒にいてくれよ。俺の隣にいて、」
どこか悲しげな顔で縋るような目をして俺を見るあいつ。
よく笑っていたあいつの笑顔はここ最近ずっと見ていない。
今は覚えているあの笑顔もいつか忘れてしまうのだろうか、と考えていると悲しくなった。
眩しかった笑顔も映画のフィルムのように擦り切れてかすんでしまうのだろう。
最後にあいつの笑顔を見たのは俺が告白した、まさにその日。といっても、それは告白する直前まで、だが。
“ごめん”その時、そう言われた言葉は当たり前の言葉だった。だって、男同士だ。受け入れてもらえるはずがない。
だけどそれ以上その場にいることが苦痛で俺は逃げ出した。
でも今はもう後悔しかない。俺が逃げなければ...。
“友達としてこれからもよろしく”きっとそう言おうとしたであろう、あいつの言葉を聞いていれば...。
「愛してる...この世の誰よりも——— お前が必要なんだ」
二重の切れ長の目。スッと高い鼻。形の良い薄い唇はそんな言葉ばかりを紡ぎ続ける。
あいつはそんなことを...愛を囁くような奴じゃなかった。
だけど、目の前にいる人間はまぎれもない、俺が好きだったあいつの姿をしていた。
「ちが、う...違う違う違う。お前は、あいつじゃない」
俺のその言葉を聞いて泣きそうな顔になるあいつ。
「違うん、だ...」
だって目の前にいるのは...
——
————
——————
記憶喪失になった、人間。
逃げた俺を追いかけ、事故にあった人間。
記憶喪失になって、あいつは別人になり、あいつの姿をしたその別人は俺を好きになった。
「なぁ、笑えよ...笑えよっ!!いつもみたいにさ...っ、」
あいつは笑っていた。
いつも太陽みたいに笑っていた。
だけど、今はもう笑っていない。そして俺も、笑っていない。
俺の知っているあいつは、あの時のあの事故で...
——— この世から消えてしまった。
もう、俺はどうすればいいのか分からない。目の前の人間を受け入れることができなかった。
好きなのに、報われない。
事故に遭って、記憶をなくした翼に付き添ってくれたのは駿だった。
入院している間も、駿は毎日病室に顔を出してくれていた。...——— 少なからず、初めのうちは翼も自身に向けられる視線に、好意も含ませているように感じた。
誰かに聞いた、駿は俺のことが好きだったのだと。
— それなのに、
いつからだろうか。徐々に駿が笑わなくなったのは。俺の目を見てくれなくなったのは。
翼の中で芽生え始めていた恋心を拒絶するかのように、駿は翼との間に壁をつくるようになった。毎日会いに来てくれる。だが、いつしかそれも義務的に行われているように感じた。
— 俺が笑うと、いつも悲しそうに眉を下げた。
何もかも分らない。事故に遭ってから一ヶ月弱。そんな短い期間で2人の関係はぎくしゃくしたものとなった。
それでも、翼の駿への気持ちは変わることはなかった。駿が他人のように接してくるようになっても、その恋心は冷めることはなかった。
だから、告白した。
けれど、上手くいくわけもなくて。
“付きあってほしい”という翼の告白に、駿が頷くことはなかった。
代わりに話してくれたのは、“前”の俺との話。出来事の数々。その時の駿の瞳は輝いていた。そうしてようやくわかった。駿が好きなのは“今”の俺ではなく“前”の俺なのだと。
正直、自分自身に嫉妬した。記憶がないことに激しい苛立ちを感じた。
俺は俺なのに、と何度思ったことだろうか。
両想いの恋は一向に報われる兆しがない。
それなのに冷めることのない恋心。不器用で少し抜けたところのある駿から目が離せなかった。自分も相手も男であるのに、それに対する戸惑いは自身の中にはなかった。同性愛に対する偏見がなかったのだ。
そんな中、翼は退院した今もなお、学校では駿と共に過ごしている。
いつか聞いた“なんで、俺といてくれるの”と。
いつか聞いた“理由はいえないよ”と。
辛そうなその姿に胸が締め付けられた。それでも手離せなかった。
毎日毎日、辛そうな顔をしている駿を自身に縛り付けていた。駿の言う“理由”を利用して。
自身の手の汚さに、苦虫を噛む気持ちになる。
「それでも、諦められない」
“今”の翼はただひたすらに駿のことを想い続けた。
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