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『 ごめんね 』
それが別れ間際に聞いた翼の言葉だった。対して駿は言葉を返すことはなかった。
閉まる扉を見送ることなく、駿はその場を去った。
無理やり犯されて、嫌だと言ってもやめてくれなくて。それでも散々人のことを好きにしておいて当の本人は辛そうな顔をして自身を見つめてきていた。
あの日から1週間が経った。翼は...学校に来ていなかった。あれから1度も翼の顔を見ていない。
頭に残るのは翼の悲哀に満ちた顔と後悔が色濃く残った目元。
毎日、毎日頭の中をぐるぐる回るそれが、駿の心を揺さぶった。
その結果、生まれた感情は後悔と...——— 同情にも似た愛情だった。
あんなにも自身のことを好いていてくれたのに、“翼”自信を否定し続け、傷つけてしまった。あれ程までに翼を追い詰めてしまった自身の言動のひどさを思い返す度、胸が痛くなった。
翼は翼なのだと、どうしてあの時受け止めることが出来なかったのかと。記憶を失くし頼れる人物もわからない。
孤独な生活に踏み込んだ駿を必要としてきたのは、必然と言ってもよい現象だったのだ。孤独は辛い、寂しい。そんなことはわかっていた。それなのに駿は翼が記憶を失くし、“別人物”となっていると知るや否や、冷たく接してしまった。翼を1人にしようとしたのだ。
そんな、生まれた後悔はもう一度翼とやり直したいという愛情へと変わっていった。しかし、当の本人はあれから姿を現すことはなかった。
何度も翼の家にも足を運ぶが、怖気づき、目と鼻の先で足を戻してしまう日々が続いていた。
「今日こそは...」
自身に叱咤するように、呟いた一言に背中を押され、ついに駿は翼の住む部屋の前にやってきた。
ここにくる、というだけでかかってしまった時間は1週間。
無理やり犯された時のことを思い出せば手が震えた。チャイムを鳴らそうと伸ばした手が重かった。
― ピン、ポー...ン、
そうして鳴らされた音に反応する人気はなかった。どこかに出かけているのかと、何となしに電話をかけてみた。...—— ドア越しに聞こえたのは、微かな着信音。
「...っ、」
思わずドアノブに手をかけてしまうが、扉は予想と反して難なくと開いてしまった。ドアの隙間から聞こえる着信音は先程よりも大きくなった。しかし未だに人気は感じられない。
「翼...いるのか、」
それほど、大きな声を出したわけでもないのに、静まった部屋の中でそれは響いて聞こえた。
最後に見た時と変わらない部屋の中。置いていた靴も、カーテンがかかって薄暗い廊下も。だが、そこにいるはずの人の姿はなかった。
「入るぞ...」
なんとなく、嫌な予感がした。足早に靴を脱ぎ、翼の姿を探す。リビング、キッチン、ベランダ、トイレ。翼の姿はどこにもない。そして最後に残ったのは寝室だった。
バクバクと心臓がうるさく鳴る。口がカラカラに乾いていた。手には嫌な汗がじっとりと湿っていた。
ガチャリと開く扉。
そこにいたのは、床に倒れ、死んだように動かない翼の姿だった。
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