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初雪の下で
『 別れようか 』
それは初雪の下、突然言われた別れの言葉。
『なんの冗談だよ、』
高1の冬。初雪の日に告白されて付き合った。他愛ないことを話して、喧嘩して、仲直りして、恋人らしいこともして。
波風一つ立つことのない、幸せな日々。今日だってそう、いつものように授業を終えて同じ帰路を歩いていた。付き合って2年。まひろはずっと共に歩んでいくのだと思っていた。
『俺のこと、もう好きじゃなくなった?』
普段はあまり冗談を言わない目の前の男。その目元には影ができていた。
目の前の状況の意味が分からず薄ら笑いを浮かべるまひろに対して、その男の口元に笑みはなかった。
『なんで、だよ...っ、なんで急にそんなこと言うんだよ、』
相手の口が返事を言うことはない。そうして男はまひろに背を向けて歩いて行ってしまった。
意味も分からずに泣き崩れるまひろを一度も見ることなく...—————
——— Prrrrr...
「...っ、」
鳴り響く電話の音。その音に起こされるようにしてまひろは目を覚ました。
「ぁ...はい、もしもし」
『まひろ先生!今どこですか!?早くしないとミーティングが始まってしまいますよ!』
寝ぼけた頭のまま、反射的に電話に出れば呆れた声が電話越しに向けられる。
「あー...今起きた」
『何やってるんですか!!あれほど明日は絶対に遅刻しないでくださいねって念を押したのに!!だからあなたは...——— 』
騒ぎ始めた相手の声にまひろはついついしかめっ面になってしまう。ヒステリー気味のその声は同僚のもの。
病院で医師として働いていたまひろをその同僚は甲斐甲斐しくも世話していた。それはもう母親のように。
「大丈夫、すぐ向かうって。ミーティングくらい俺がいなくても大して変わんないから」
『そういう問題じゃありません!社会人にもなって遅刻なんてことは———— 』
「あー大変だ。パンが焦げちまう。俺、焦げたパン苦手なんだよな、ってことでちょっと切るな。それじゃあ、またあとで」
そう、てきとうなことを言い電話を切った。電話越しの声は最後まで何事かを叫ぶようにして騒いでいたがその声はまひろの耳には届かなかった。
「それにしても、目覚めの悪い夢だったな」
歯を磨く、まひろを映す鏡。その姿に、夢に出てきた自身の幼さは残っていなかった。
気が付けば20代後半という年齢になり、周りの人間たちは皆、結婚し、身を固めていた。
しかし、今のまひろにはそう言った関係の異性がいなかった。だが、別段女性に好意を寄せられないというわけでもなかった。むしろ院内では看護師や受付嬢から多くのアプローチを受けてきた。
それでも、全て断っていた。
「まひろ先生!遅刻も遅刻、大遅刻ですよ!!」
「あぁ、悪い悪い」
病院に着けば般若のような顔をした同僚、みずきが仁王立ちして待ち構えていた。それはもう、患者が逃げ出してしまうレベルの怖さだ。
「もうミーティングも終わってしまったし...遅刻してきたのはまひろ先生だけですよ!それに今日は新しく医師が配属されてきたんです、あいさつしに行ってきてください!今、更衣室に向かったところですから追いかけて!」
「耳元で騒ぐなよ。鼓膜破れちまいそう」
耳がキンキンとした。大人しくしていれば美人なのに、なんて何度思ったことか。まひろと同い年で、美人なみずきは院内でもモテていた。しかし、異性からのアプローチが叶わぬものだとまひろは知っていた。
「そんなにぷんすか怒ってたら、みどりちゃんが怖がって逃げちゃうよ」
「なっ...!」
まひろの言葉に、みずきは顔を真っ赤にして口元を戦慄かせた。
「この...っ、」
「じゃあ、俺あいさついってきまーす」
そう、みずきは同性愛者だった。想い人は同じ科の看護師、みどりちゃん。
そうして反撃が来る前に、まひろはその場を退散し更衣室へと向かった。
——
————
——————
タンタンタン、と更衣室への階段を下りていく。途中、新しい医師の名前も顔もわからないことに気が付いたが、会えばわかるだろうと、己の勘を信じて向かう。
そうして更衣室の前につき、扉を開けようとした時。触れているだけなはずのその扉は勝手に開いた。
「...っ、」
扉が開き、目の前に1人の男が現れる。その時、初めて気の抜けた顔をしていたまひろの眉間に皴が寄った。
「伊吹...っ、」
自身よりもわずかに高い身長。昔と変わらない、優しげな雰囲気を纏った偽善者。
「え、まひろ...なのか、」
そこにいたのは、今まで一度も忘れることのできなかった、元恋人の姿だった。
「まさか、まひろも医者になってるとは思ってなかった、」
休憩室にて。隣に座る伊吹は昔を思い出したのか、懐かしむように笑う。
「お前は昔から俺と同じ考え方してたよな。もしかして、医者になったのもそうだったりするのか」
苛立ちを隠そうとしないまひろとは打って変わって、伊吹は楽し気に話しかけ続ける。それはまるで、昔付き合っていたことを忘れてしまっているかのように。
「お前って、そんな鈍感だったっけ。それとも無自覚?よく普通に話せるな。忘れたわけじゃないんだろ、俺とお前が昔———— 」
「俺さ、結婚したんだ。もう、子供もいる。こんな俺でも妻子がいるんだ」
「...っ、」
全てを遮るかのように、拒絶するかのように、伊吹は自嘲気味に笑った。その目はまひろを見ていなかった。
「あぁ、そうかよ。よかったな、俺も嬉しいよ。お前みたいな理由も言わずに恋人捨てる酷いやつが結婚できてさ」
まひろの嫌味を込めた言葉に、伊吹が応えることはなかった。謝りもしなければ、理由も言おうともしなかった。
そのくせ、困ったように眉を下げ、ヘラヘラと笑う男にさらに苛立ちが積もっていく。
「あれから何年も経って、少しはマシになったかと思ったけど、本当変わらないのな。悪いけど、今後一切仕事以外のことで俺に話しかけないでくれるか。お前と話してると苛々するから」
「まひろ...」
呼び止めるようなその声に胸が高鳴った。そんな自分に嫌気がさす。理由も言わずに自分を捨てた男のことがこんなにも憎いと思っているのに、それと同じくらい、愛情が未だに残っているのだ。
「曖昧な気持ちで俺に近づくな。もう、お前に振り回されたくないんだ」
こんな年にもなって未だに恋人がいないのは伊吹のせいだ。伊吹がちゃんと振ってくれなかったから。諦めるような言葉をくれなかったから。——— だからいまだに自分は目の前の男を愛しいと思ってしまう。
「まひろ、お前は恋人はいるのか?」
「...なんでそんなこと聞くのさ。何、もしかして俺とやり直したいの?」
今度はまひろが自嘲気味に笑う番だった。自分は何を言っているのだ、と。それを望んでいるのは自分の方だ、と。
そうして訪れる沈黙のあと...———
「それは、できないよ」
「...っ、何まじになってんの。冗談くらい上手く流せよな。そんなんじゃ院内でからかわれるぞ」
伊吹の言葉を聞きたくなくて、耳を塞ぎたくなった。背を向け笑い声を上げるが、顔に笑みを浮かべることはできなかった。
— 訊かなければよかった、
一瞬でも淡い期待を抱いたのがいけなかった。自分はもうすでに振られた身なのだ。それに加え、伊吹は結婚して子供までもいる。
未だに未練たらたらで想い続けてる自分が愚かに感じてしょうがなかった。
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