初雪の下で

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 「まひろ君、明日は仕事?それともゆっくりできるの、」  「明日は休み。だから飽きたら帰る」  「ふーん、じゃあゆっくりできるね」そう言い、腰に手を回してくる男は、BARで知り合ったばかりの人間。  特にタイプというわけでもなかったが、顔が整っていて中性的だったから誘った。  男らしい男は苦手だった。...掘られる危険性が高かったから。基本、ネコはやらない。見ず知らずの奴に中に出されるのが嫌だから。  暗い路地裏を歩く。ホテルへ行くには一番近い道だった。そして、そこを通れば知り合いにあう確率も少ない。...———と、思っていたのだが。  「...まひろ?」  こんなところにいるはずのない声の持ち主に呼び止められる。  「なんでここにいるんだよ、」  「まひろ見つけたから追いかけちゃった」  頬を掻きながら伊吹は顔を俯かせる。なんてタイミングで会ってしまったんだ、とまひろは重たい溜息を吐いた。  「まひろ君、この人だれ?」  「あぁ、職場の同僚。伊吹、俺はまだ寄るところあるから。絡まれないよう気を付けて帰れよ」  これ以上、3人でいるのが嫌で手短に別れを告げると、隣に居た男に目で合図し、その場を去ろうと歩みだす。  「...何なの。離してくんない?」  しかし、数歩、歩いたところでまひろは腕を掴まれ歩みを止められた。そうして後ろを振り返れば、先程とは違い、些か険しくなった顔をした伊吹が視界に写る。  「はぁ...何か言ったらどうなの。またいつものだんまり?そろそろこっちも疲れるんだけど」  「...その男とは、どういう関係なんだ」  「ははっ、どういう関係かって、そんなのあんたに関係ないじゃん」  そう言えば、伊吹の腕を掴む力が僅かに強くなった。  「 帰るぞ 」  「...は?ちょ、おい!引っ張んなって、聞いてんのか!」  かと思えば、隣に居た男から引き離されてしまう。  一体何なんだと。どうして引き止めるのだと。聞けもしないことが何度も浮かんでは消える。  いつもヘラヘラしてるこの男の考えが全く分からなかった。  「なんだ...彼氏さん?僕、面倒事はごめんだよ」  「あ、ちょっと待てよ!違うって、こいつは...——— 」  勘違いをした男の後ろ姿を追おうとするが、強く腕を掴まれてしまっていた為にそこから動くことが出来なかった。  そのうちに、男は足早に去ってしまう。そうして漸く手の力が緩まったのを見計らってまひろは伊吹の手を振り払った。  「ふざけんな!俺の邪魔を———っ、ん゛ん...ッ!?」  暴言を吐きながら振り返った瞬間、肩を掴まれまひろの顔を影が覆った。  「やめ...ッ、ふっ...ん゛ぅ、」  息つく間もなく唇を塞がれていた。開いた口腔を熱い舌が犯す。  激しく求めるようなそれは、付き合っていたころの学生時代を彷彿させるものだった。  「嫌、だ...っ、ぁ、やめ...ッ、」  息ができなくて苦しくなる。逃げる舌を執拗に強く吸われる。それは長い長い拘束の時間。伴って、口の端からは飲み込み切れなかった唾液が一筋の道をつくった。  ― ふざけるな...ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!!  「...ッ!」  まるで麻薬に溺れているかのように陶酔しそうになる。渾身の力で伊吹の胸を強く押せば今度こそ距離をつくることに成功した。  口元を伝う唾液を服の裾で拭い、目の前の男をキッと睨む。しかし、その瞳には涙が浮かんでいた。  「お前は...お前はずるい。妻子がいるって、俺のことを拒絶しておきながら昔と変わらずに今も俺を振り回す。何がしたいんだ...俺を苦しめて面白いか、楽しいか」  ポタリ、ポタリ、と溢れた涙が頬を流れ、地面に染みをつくっていく。こんな年にもなって涙を流す自身の女々しさが疎ましかった。  自分ばかりが心をかき乱される。諦められない、未練がましい心を狂うほどに追い詰められるのだ。  「お前なんか、嫌いだ...大嫌いだ!いい加減にしてくれ、ハッキリしろよ!お前が何考えてんのかわかんねぇよ」  零れだした不安は止まることなく紡がれ続ける。それを伊吹は黙って聞き続けていた。  自分たち以外、誰もいない路地裏。まひろの悲痛な声が、乾いた空気を震わせた。  息が荒くなる。涙で濡れていく顔。眉も口元も下がり、いつもは強気なまひろの表情は弱々しいものへと変り果てる。  そうして、どれほど経っただろうか。まひろの口がきつく閉ざされた時...———  「俺が憎いか、目の前から消えてほしいか、」  ゆっくりと伸ばされる手。この手を掴んだ先に何があるのか。  「...っ、」  揺れる心。しかし、まひろはそれに反して駆け出した。手を取ることが出来なかったのだ。  伊吹の呼び止める声はない。まひろは背を向け走り続けた。  目の前の暗闇から逃げるように、遠くへ遠くへ。  バクバクとうるさく鳴る心臓の音。自身の駆ける足音。夜の街の賑わい。それらで鼓膜が震え、“現実”の音として脳に染み渡っていく。  そう、これが現実だ。あの手を取ったところで現状は何も変わらない。  これからもあいつの幸せを見て、聞いて、そして受け入れてもらえない自身に嘆き続けるのだ。  ― それでもやっぱり、あの手を掴めばよかった  そう思ってはいても、結局最後に生まれたのは、今までと変わらない後悔という感情だった。
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