初雪の下で

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 『 別れよう 』  それを言ったのは、自分。そうして戸惑うまひろに理由を言うこともなく伊吹はまひろの前から姿を消した。  理由は簡単だ。今時古臭い政略結婚。それがまひろと別れた理由だった。  伊吹の父親は医者だった。そして勝手に決められた伊吹の婚約相手は父親が勤めている病院の院長の娘。学生時代から優秀だった伊吹は将来を期待されていた。それに加え、院長の娘が伊吹に一目惚れしていたのだ。  そして娘に甘い院長は伊吹の父親に縁談を持ちこんだ。  だが、伊吹はまひろに、自分がまひろ以外の人間を愛さなければいけないと言うことが出来なかった。自分に嘘がつけなかったのだ。まひろのことを愛していたから。  泣き崩れるまひろを見たら、抱きしめて本当は別れたくなんかないんだ、と叫んでしまいそうだった。だから、あえて瞼を閉じ、まひろの前から去って行った。  しょうがないんだ。自分が結婚しなければ、父親の立場が危うくなってしまう。自分が言うとおりにしていれば全てが丸く収まる。そう、“全て”が...——— しかし、そんなのは都合のいい解釈だった。  大学を卒業し、医師として病院に勤め、そして結婚した。  — だが、一度も妻を愛することが出来なかった。  心の中にあり続けるのはまひろだけ。伊吹のすべてはまひろだったのだ。何も解決していない。自分の人生、人の言うとおりに過ごしてきたのに、何もかもが虚無に感じた。  そんな中、経験を積み、伊吹は妻の父親が院長として勤めている病院へと配属された。  後々は院長を継ぐのが伊吹の役目だった。決められた道を歩き続ける、味気ない人生。  自分は家族を愛しているのだ、と何度言い聞かせてきたか。...———そんなこと、無駄であるとわかっているのに。  『まひろ...なのか』  だが、神とは何て気まぐれなのだろうか。配属された病院にはまひろがいた。  脳内に残っていたその姿よりも大人びていて、身長も自分とは大差がなかった。  さらついた黒髪に高い鼻、薄い唇。二重の細い瞳は昔と変わらず、どこか気だるげだった。まひろは若いながらもそこの病院の名医として有名だったのだ。  色づき始めた日常。期待も何もかも抱いてはいけないとわかっていたのに、それでも高鳴る鼓動を止めることが出来なかった。  自分は未だにまひろを一途に愛していた。
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