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伊吹と路地裏でもめた翌日。不機嫌なまひろを出迎えたのは同僚のみずきだけだった。
「どうしたんですか、すごく不細工な顔になってますけど」
顔を覗き込み、クスリと笑ってくるみずきのでこを指で強くはじいてやれば、大げさに痛がってきた。
「別に何もねぇよ」
無意識に触れたのは唇だった。今でも思い出すことのできる、柔らかな感触。自然と熱くなった顔を冷まそうと、みずきをおいてまひろは静かな病院内を歩き始めた。
昨日のあの時。自分は一体どうすればよかったのか。何が正解で何が間違いなのか。それとも最早答えなどひとつしかないのか。
いくら考えようともわからぬまま。結局まひろは夜まともに寝れず、寝不足のままの出勤となった。
「ねぇ、知ってた?こないだ配属されてきた伊吹先生、奥さんは院長の娘さんらしいわよ」
そんな時だった。ナースステーションに近づいた時、興味をそそる話耳に入ってくる。おしゃべりの大好きなベテランのナースたちがまたいつものように噂話をしていた。
「えー!じゃあ、伊吹先生、もしかして次期院長候補?やだ、それだったら嫌われないよう気をつけなくちゃ」
「本当そうよね。それに、今日も家族で○○水族館に行くみたいだし...いいわよね、奥さんはきれいで、伊吹先生もいい男。それに加えてかわいらしい子供もいて...幸せな家庭って感じ」
「羨ましいわ、私なんてビール腹で中年の旦那で...———」
本当ナースは何でも知っている。女の情報網のすごさには舌を巻くばかりである。
「幸せな家庭、か」
そう言った瞬間、自嘲気味な笑みが浮かんだ。
自分はそんな幸せを壊してはいけないのだ。目先にある出世への道。家族との団欒の一時。伊吹はそんな幸せの人生を歩んでいる。
― そこに自分の居場所などは当然のことながらないのだ。
改めて伊吹はもう自分のものではないのだ、と実感した。
そうしてまひろは昨夜のキスの意味を考えることをやめた。
——
————
——————
だが、今ならわかる。
この時の悩みなんてまだ、幸せなものだったのだと。
昼間の院内。そこは混沌と恐怖でざわついていた。
「すぐに手術ができるように準備して!何人の方が運ばれてくるかは定かではありません」
いつもとは違う、緊迫としたみずきの声音にまひろも顔が強張る。
病院には何本もの緊急の電話が入っていた。けが人が出た場所はすべて同じ。
そこは人混みの多い大通り。そこで無差別の殺傷事件が起きたのだ。
腹を刺され重症の者から、手足を切り付けられた者まで。多くの人間に被害が及んでいた。
「まひろ先生、あなたは焦らず、いつものように手術を行ってください。相手は政治家、しっかり頼みますよ」
しかし、その多くの命を救う行為にまひろはすぐ取り掛かることが出来なかった。入院患者であった政治家の男の状態が悪くなり、急遽手術を行うことになっていたのだ。
特にまひろは院内でもトップクラスの名医。そのセンスから若年ながらもすでに重役を任されていた。
「俺も手術が終わり次第すぐに駆けつける」
続々と戻ってくる救急車の数々。そこから降りてくる被害者の顔一つ一つをまひろは確認した。
― ちがう...違う、違う、違う...あいつは、いない。救急車の数はこれで全部か、よかった...。
今回事件のあった大通り。そこは伊吹たちの向かった○○水族館のすぐ目の前だった。そのため、伊吹に何かあったら、とまひろは気が気ではなかった。
しかし、伊吹の姿を確認しなかった今、まひろは僅かに心を落ち着かせることが出来た。
それでも、担架で運ばれてくる者の多さに眉間には皴が寄る。早く自身もこちら側の治療に移らなければ、と被害者を救いたい感情が募っていく。
その時だった。突然大きなクラクションの音が聞こえたのは。騒音のする方を見れば、正面玄関のすぐ入口に1台の車が止まっているのが見えた。そして、運転席を降りてきた人間を見て、まひろはゾッとした。
降りてきたのは1人の女。女の服は...———— 血だらけだった。
「お願い、助けて!!夫が...夫が逃走した犯人の車に轢かれて...ッ、」
その瞬間、まひろはその車の方へと駆け出した。誰よりも速く、1番に。
女の服の血は別の人間のものだったのだ。
「あ゛ぁ...っ、そんな、」
車の中にいたのは、1人の子どもと...———— 血にまみれた伊吹の姿だった。
虚ろな瞳。頭も顔も体も、すべてが赤に染まっていた。
「まひろ先生!担架に乗せるので、端に寄っていてください!」
肩を押され、倒れそうになる。あまりの衝撃に足元が覚束なくなってしまった。
「夫は息子を守るために、車に轢かれて...お願いします、どうか...どうか夫を助けてください!あなた、ここで働いてるまひろ先生でしょ、あなたの腕なら夫を助けることが出来る。夫を...夫の手術を行ってください、」
整ったその顔を歪ませ、涙を流しながらその妻はまひろに懇願してきた。
「...っ、任せてください、あなたの旦那さんの命、必ず救ってみせます」
そう言い、まひろは女を置いて伊吹の乗った担架を追いかけた。
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