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「さあさあ、お立会いの皆様、どうぞご覧になってくださいませ。これがあの有名な獅子酒でございますよ。えっ、ご存知ない、ですって?ならばご説明いたしましょう。獅子酒とは読んで字のごとく獅子の酒、つまり、ライオンを素材として作った酒でございます。詳しい作り方については、企業秘密なのでお教えできませんが、とにかく高級な酒に、ライオンの心臓エキスとたてがみを混ぜ込んだ代物で、その効能は絶大でございます。それもそのはず、なにしろライオンは百獣の王、酒は百薬の長といいますからね。このふたつが合わさった獅子酒に魔法のごとき力があるのは、もはや必然とも呼べるでしょう」
相変わらず流暢に胡散臭いことを語っている物売りを、普段のエス氏なら無視して通り過ぎるのだが、この日は立ち止まって耳を傾けていた。
エス氏はこの近くに住む男で、今年で28歳になる。しかし、エス氏は高校を出て以来一切仕事もせずにひきこもり、たまに出かけたと思ったら酒を買って戻り、飲んだくれの生活を送っていた、つい最近までは。
1ヶ月ほど前、エス氏はある決心をした。酒をやめて、真面目に働くという決心を。なぜ突然そう思い立ったのかはエス氏自身もよく分からなかったが、親からの小遣いでただただ惰眠をむさぼって生活する自分が、急に嫌に思えてきたのだ。
そして、この1ヶ月、エス氏は本当に酒を飲まなかった。はじめの1週間は誘惑に何度も襲われながら生き地獄にいるような思いで我慢しなければならなかったが、次第に酒のない生活になれてくると、やがて酒を買いに行くのも面倒だと思えるようになった。そしてこの1ヶ月で、エス氏は自分から酒を取ったら本当に何もないことを思い知らされた。ただ起きて、ただ寝るだけの生活。そんな惨めな自分に気づいたエス氏は今日初めて、働きたい、と思ったのだ。今エス氏が外にいるのは、自分を雇ってくれそうな場所を探しに行くためだったのだ。
だが、家を飛び出したエス氏はすぐに不安に襲われた。この10年間、家族以外の人間とほとんど話していない。いや、家族とさえ、あまり話していない。そんな状態でどこかの会社に面接を受けに行ったところで、まともな受け答えができるわけがないと思った。途方に暮れていたエス氏の心を惹いたのが、毎週現れては妙な品を売っている、この物売りだった。正確には、今日の品が酒であるというところに惹かれたのだ。
「酒か。しばらく我慢したのだから、たまには悪くないかもな。それに、多少酔ってでもいないと、これから会う誰ともちゃんと話せそうにない」
エス氏は独り言のつもりで呟いたのだが、物売りの耳の良さはさすがだった。すかさずエス氏のそばに寄ってきて言った。
「お兄さん、ずいぶんな酒好きとお見受けしましたよ。ここのところ我慢していた、とおっしゃいましたかな?いやはや、禁酒とは立派なこころがけでございます。しかし、どうか酒を悪だとお決めつけにならないでくださいませ。酒は百薬の長、きちんと量を守れば、これ以上に人間の心、体を癒してくれるものはございません。ましてやこの獅子酒は、その酒のなかでも極上の効果をもたらす一品なのです。きっと、気に入られると思いますよ」
熱心に売り文句をまくしたてる物売りだったが、エス氏のほうも、はじめから酒を買うことへの抵抗は特になかった。ただ、ひとつだけ気になることがあり、物売りに尋ねた。
「その極上の効果というのは、具体的にはどういうものなんです」
物売りは少し困った顔をして、
「うーん、具体的に、とおっしゃられましても。ライオンのようになれる、としか言いようがございません」
「それでは説明になっていないじゃありませんか。ライオンのようになれるって、きばやたてがみでも生えてくるんですか」
「いやいや、そんな外面的なものではございませんよ。もっと内面的な、ライオンのような、何があっても動じない図太さ、逞しさと申しますか」
それを聞いたエス氏の顔に希望が満ちた。何があっても動じない図太さや逞しさとは、まさにこれから面接を受ける上で必要なものではないか。エス氏は獅子酒を買い、その場で飲み干した。すぐに酔いが回ってきて、エス氏は意気揚々と歩き出して行った。そして、そのまま一つも面接を受けることなく、ぶらぶら歩いて家に帰ってしまった。
「あっ、おかえりなさい。どうだったの、面接は。どこか受けられたの」
玄関で、心配と期待の入り混じった表情の母親が尋ねたが、エス氏は靴を脱ぎながら、あっけらかんとして答えた。
「面接?ああ、それなんだが、よくよく考えたらどうして僕が仕事なんかしなきゃならないんだ、って思えてきて。それよりお腹が空いたな。ごはん、まだ?部屋で待ってるから、持ってきてね」
狐につままれたような顔の母親を残して、エス氏はさっさと二階へ上がっていった。
エス氏は部屋のなかで、あの酒の効果が本物であることを実感していた。
「そういえば、ライオンのオスは自分では狩りをしないんだっけ。メスが仕留めて持ってきた肉を、寝そべりながら食べる。くうっ、最高の生活じゃないか」
エス氏は先ほど母親が無言で置いていった飯をベッドの上でむさぼりながら、まさに百獣の王になった気分だと思った。
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