灯の鳥(1)

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灯の鳥(1)

 いつからこうして歩いていたのか、もうわからない。  夜が来る。  日が落ちる。  休む場所を探さなくては。  そう求めてからどれほどの時間が経っただろう。  あたりは暗く、あてどなく歩みを進めている。  目に触れるものはすべて木々。  空は見えなくなって久しく、生き物は気配だけが濃密に漂って、けれど決して姿を現さない。それが何者かに見張られている心地の悪さになってこの身にまとわりついている。  子供の頃に暗闇を怖がったような感覚を久しぶりに味わった。  懐かしく、でも歓迎できない、原初的な不安に押しつぶされそうだ。  疲れを感じて手をついた、樹木のざらついた表面は冷たく僕を拒絶する。  ――どうして森に来たのだろう。  今になって途方に暮れた。  帰り道が定かでなくなって、急に不安になっていた。  だから最初からやめておけばよかったのに。  己の考えの浅はかさをいまさらなじった。  目的があってここに来た。  噂話か、あるいはおとぎ話に聞いたことがある。  この森で、人はひとつ、記憶を捨てられる。  忘れたいことがあった。  何を忘れようとしていたのか、もう忘れてしまった。  目的を果たしたのだろうか。  わからない。  ただもう一度歩き出す。  どこかへたどり着くために。  何かを探し出すために。 1.  鳥の鳴き声をはじめて聞いた。  森に踏み入ってから一度も生物の鳴き声を耳にしなかった。  だから、それを何かの合図のように感じて歩みを速めた。  足元にからみつく羊歯を踏み、のたうつ木の根につまずきよろけ、それでも確かに前へと進む。  一歩、踏み込んだ。  途端に日が差して、反射的に瞼を閉ざす。  ――明るい。  日暮れを迎えたと思ったが、木々が日差しを遮っていただけだったようだ。  あるいは知らぬ間に夜通し歩いて朝を迎えたのか。  そこは、木々が除けたようにひらけた空間だった。  ぽつんと一軒、屋敷が建っている。  庭先に色とりどりの花が咲き、サンルームのガラス窓が日の光を照り返して輝く。  唐突に立ち現れた牧歌的な光景を、夢のように感じて立ち尽くした。 「――あ」  再び鳥の鳴き声が聞こえ、考えるよりも早く姿を探した。  見上げた二階の窓辺で小鳥が鳴いていた。  今まさに空から帰ってきて、差し出された誰かの指先で羽を休める。  鳥を迎えた白いひとさし指は、小さなその子を鳥篭へ導き戸を閉めた。  何もかもが優しい仕草で行われ、鳥と人の間には強い信頼関係が結ばれているように感じられて不思議だった。  指をたどって姿を見た。  女の子だ。  髪も肌も褪色したように淡い。  襟元に結んだリボンが髪よりもおおげさに風にゆれている。  僕を見つけるとやわらかく微笑んで、窓辺から姿を消した。  ほどなく、玄関が開き、彼女が現れる。  活発そうな膝小僧をズボンの裾から覗かせた姿は、窓辺を見上げたときの印象よりも少女を幼く見せる。  十代の半ばだろうか、もっと幼いだろうか。  まだあどけない頬がふっくらと柔らかそうで、そこに笑みを綻ばせ、彼女は手を差し伸べた。 「はじめまして。よく来たね。どうぞ休んでいって。歩き疲れただろうから」  呆然と立ち尽くす僕の手を引いた。  彼女は警戒心の欠片もなく見ず知らずの相手を部屋へと招き入れる。  少女のなすがまま、案内されてソファに腰掛けた。  ガラス越しに森を一望できる、サンルームの応接間だ。  ソファとテーブル、壁に沿って並べられた植物――  それ以外はすべて空洞の、高い天井をもつ贅沢な部屋だ。  暖かな日差しに包まれて、一瞬、森への恐怖心を忘れた。  ずっと、ここへ来たかった気がする。  この光に身を浴したかった。  目を閉じると少女の声が聞こえた。 「大丈夫。きみの目的は果たされた」  気負うでもない、なにげない囁き声だ。  最も欲していた言葉を得られた。  そう思えて、僕は安堵をもらす。  ひと言、知らぬ間に声になっている。 「……そうか。よかった」  飲み物を運ぶよ、と少女は言った。  けれどその言葉は遠い場所から響いた気がして、僕はまともに答えられない。  強い眠気に襲われて、目を開けることができなかった。
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