クレマチスの恋は林檎の毒に侵されている

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 コの字型の廊下に囲まれた中庭にはまだ黄緑色の紫陽花が屯し、その隣ではクレマチスが満開を迎えていた。  栄は前を歩く篠上の小さな背中を、黙って追う。 「ここで待ってろ。茶くらい出してやる。後、そのデカい荷物は預かろう」 「あ……うん」  抱えていたクーラーボックスを渡すと、篠上は心底ダルそうに、一旦部屋を出た。  休日に押し掛けたようなものだ。無理もない、と栄は項垂れる。  開け放たれたままの障子の向こうには、小さな池を取り囲む水仙と鈴蘭、軒下の日陰にはハシリドコロ、よくよく見るとこの庭には、毒草がわんさか植えられている。    盆に乗せた麦茶を持って来る篠上の姿が、向かいの廊下からすでに見えていた。  昨今、小学生でも篠上くらいの体格の子は珍しくない。  でも、その可愛らしい姿に似つかわしく無い不機嫌そうな顔。  篠上は、昔から不満そうな顔をしている印象がある。 「凄い庭だな……」 「あぁ? 茶に毒は入れてねぇぞ」 「誰もそんなこと言ってねぇわ!」  テーブルを挟んで向かいに座った篠上は、不貞腐れた顔で麦茶を一口飲み、視線を合わせることなく栄に言った。 「お前、今回の件が“林檎の花殺人事件”に関係あると思っているのか?」 「……分からない」 「お前のが死んだのは、もう七年も前だ」 「そう……だけど、送り主不明の林檎なんて、怪しすぎるだろ……」  “林檎の花殺人事件”――――それは、栄が高校三年の春。  雪野水樹(ゆきのみずき)の自殺を発端に、彼の自殺を証言した本田道正(ほんだみちまさ)倉橋幸也(くらはしゆきや)が惨殺された。  その遺体の傍には林檎の花が置かれており、“林檎の花殺人事件”と名付けられた。  だが、余りの凄惨さに報道規制が布かれ、全容が不確かな殺人事件は、世間の妄想を大いに煽った。 「お前も知っての通り、本田と倉橋の遺体発見現場には林檎の花があった。だが、どう置かれていたか迄は、知らんだろう?」 「あぁ……テレビではそこまで報道されてなかった」 「本田は肺、倉橋は肝臓が抜き取られていた。林檎の花は、その傷口に接ぎ木でもする様に植えられていたんだ」 「接ぎ木……? っていうか、篠上、何でお前はそんな事知って……」 「警察からの依頼で、俺は現場を見てるからな」 「は?」 「俺は遺伝子学の博士号を持っている」 「え?」 「そもそも、ジジイがうるせぇ……いや、話が逸れた。つまり、その接ぎ木がどういう事かを解明しろと言う、警察の捜査依頼だ」 「捜査依頼……?」  警察が一介の高校生に捜査依頼? コ〇ンかよ!  栄はそう考えたのち、篠上なら、と妙に納得できた。  異様に達観した態度と、その容姿にそぐわぬ傍若無人な物言いは、動じないと言う類のものだと、今なら分かる。  栄には、篠上の驚いた顔、と言うのが全く想像出来ない。 「つまり、俺はお前よりも事件の真相に近いという事だ。二人の体内からは大量の鎮静剤が検出された。意識はあるが体の自由は効かない。その状態で開腹され、臓器を持ち出され、林檎の台木の代わりにされた。縫合もされてないから、実際の死因は失血死。これがどういう事か、分かるか?」 「いや、全く……」 「頭使えよ、城之内。お前、仮にもN大で院生やってんだろ? 林檎の花はその花言葉に倣って“選択”を意味し、奴らは何かを選ばされた」 「選択……」 「花が咲けば、実を結ぶ。林檎の実の花言葉は“誘惑”そして“後悔”。これはアダムとイヴが知恵の実を食べたことで羞恥を覚え、後悔することに由来している。誘われ、選んで口にし、結果を悔いる。犯人はそうやって、塵に等しい人間共に、後悔を教えて下さってるのさ」 「だ、誰がそんな事……」 「そこはお前も知っての通り、あの事件は未だ解決していない」 「でも何で、本田と倉橋なんだ? 水樹の自殺を証言したからって……」 「だからこそ第一に容疑者として浮上したのが、雪野の母親だ」  水樹の母親が、本田と倉橋の証言が偽証だと食い下がっていたのは、栄も覚えている。  何故なら、栄は母親と同じように、水樹の自殺はあり得ないと確信していたからだ。  もし、水樹が何らかの理由で殺されたのだとしたら、水樹の母親がその真相を知っていたとしたら、動機には十分なりえる。  そしてその母親が一番恨んでいるとしたら、栄はそう考えて、俯いた。 「母親の静江には、死亡推定時刻のアリバイがある。隣人の声が煩いと隣に文句を言いに行っていた。だが、これがおかしい」 「おかしい?」 「隣人の話だと、自分たちも寝ていて、話し声などするはずがないと証言している」 「え? じゃあ、嘘……?」 「警察も最初は、静江がワザとアリバイを作りに行ったのでは、と疑った様だが、どうやっても死亡推定時刻は覆らなかった。おそらく、嘘ではなく、幻聴だ」 「幻聴?」 「事件が起きたのは雪野が死んで、すぐだ。母子家庭で息子を喪い、悲観に暮れている中で容疑者扱い。PTSDを患っていてもおかしくない」 「PTSD……」 「お前には実が送られて来たんだろう?」 「え? あ、あぁ……」 「お前に後悔させたい奴がいるらしい」  栄は意味深にそう言った篠上を、一瞥して視線を落とした。  栄は口の中で「後悔させたい奴」と言う言葉を咀嚼し、喉に押し込む。  多分、いや絶対に、この男は自分と水樹の関係を知っている。  水樹が自殺した時、栄は、思考することを放棄した。  ただ二酸化炭素を垂れ流し、刻々と迫る受験に備えて勉強し、水樹との関係を、隠蔽する事に全力を注いだのだ。 「そうやってお前が憂いている間に、愛猫の遺体も、奴との思い出も腐乱していくぞ。大事だったんだろう?」 「あぁ……」  もう思い出すのも、苦しい。  ずっと、誰かに聞いて欲しかった。  愛していた。  愛していた、なのに、あっけなくこの世から消えた。    「寂しくない様に、栄より一日だけ長生きしてやるよ」  なんて言ってたあいつが、自殺を選ぶはずがない。  分かっていたのに、誰にも、何にも言えないまま、七年も過ぎた。  滴り落ちる後悔に、安堵し、そうする事しか出来ないと正当化する。  単調な循環線のように繰り返されたその行為は、次第に感覚を鈍らせる。  でも、何周廻ろうとも、その停車駅のどこにも真実と言う駅は存在しない。  今更過ぎて、反吐が出る。  栄は、詰まる喉から絞り出した。 「俺は……恋人の……水樹の死の真相が知りたい……」 「よく出来ました。百点満点」  抑揚のない声でそう言った篠上に、栄はフッと笑みが零れる。  栄は愛猫の遺体を篠上に託し、家を後にした。
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