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病室は静かだ。誰もいないわけではない、むしろ4人もいる。
藤子さん、松原先生、僕、そして鬼灯芙蓉…彼女の母親だ。
「……!…、……」
言葉はなく、花を何度も差し出しながら会話を続ける藤子さんを見て、胸が詰まる思いだった。
まず、エーデルワイス(これは花言葉ではなく、歌の『エーデルワイス』で「every morning you greet me」とあるため、あいさつの時はよく差し出してくる)
次にルピナス(いつも幸せ)、ポーチュラカ(いつも元気)、アングレカム(いつまでもあなたと一緒)…。
「あの子はねえ」
廊下に連れ出され、松原先生の話を聞く。
「母親が有名なフラワーアレンジメントでさ、すごく花の種類、意味、由来を大事にしていたんだ。で、たぶん藤子さんが中学生くらいだったかな?芙蓉さんのお父さんがなくなってしまったのよ、えっと、まさに交通事故で」
交通事故。藤子さんが柿本さんのことであんなに取り乱していたのも、きっと本気で死んでしまうと思ったからなんだろう。
「どうやら大恋愛の結婚だったわけ、芙蓉さんもなんか情熱的な…アーティスト気質でさ、あまりに悲しかったもんでふさぎ込んで、仕事もあんまりしなくなっちゃったの。それでね…ちょっとずつノイローゼ気味になってさあ…うん、原因は母の日のことよ」
そこで彼は固唾をのむように言葉を切り、実に神妙な顔つきでこう続けた。
「その日ね…藤子さんが芙蓉さんに、精いっぱい喜ばせようと贈った花が…黄色のカーネーションだったわけ」
黄色いカーネーション。
花言葉は「美」それから、
「……軽蔑」
「らしいねー、僕は知らないんだけどさ。そしたらさあ、もういっぱいいっぱいになっちゃってるししかも、偉大なフラワーアレジメントとしての彼女がそれを見て、もうそりゃあすごい剣幕で怒ったって話だよ。怒って…ほら、軽蔑されたって思いこんじゃったんだろうね、頭に血が上って倒れちゃって」
僕は黙って聞くことしかできなかった。言葉がつかえて、息が詰まる思いだったのだ。母親としての自信の喪失と、娘としての純粋な気持ちに傷がついたこと。計り知れない辛さが、きっとそこにはあったんだろうな。
「とにかく、今はここ――――精神病棟おお世話になってるの。ねえ君、考えてごらんよ。14歳のころから藤子さんの家族は、存在はしているのに話しかけても反応のない母親と、もはや生きてない父親の思い出と…それだけなの。そりゃあ、彼女を実家に…あの豪邸ね、住まわせることのできる金持ちの親せきがいて、従妹だって友達だって…彼女、周りには確かにいい人いるけどさあ…悲しいことがあっても寄りかかる胸がなくて、そのまま成人したんだよ?…感情表現がへたくそになっても仕方ないよね…」
僕は、泣いていた。涙がとめどなくあふれ、鼻水まで容赦なく流れ続けている。松原先生が心配そうにティッシュを差し出すのを見て、もっと泣いた。こんな風に無償の優しさを…彼女はちゃんと思春期に感じられなかったんだと思って。
「藤子さん、はずっと…あんな大きな家でお手伝いさん、と二人きりでっ」
嗚咽が漏れる。なんて温かみのない話なんだろう。あの冷たい大理石の床を思い出す。そしてあの、苦しくさえなる彼女のアトリエを。あの、花の匂い。
あんなにアットホームな雰囲気の華やかな仕事場が、花々が…彼女にとっての鎖、呪縛だったなんて。
「そうだね、……そうだね……」
彼女のカウンセリングもほんとはしたいんだよ、と松原先生は、それは苦しそうに微笑した。医者としてというより、娘を気に掛ける父親のような表情だった。
藤子さんの、心。
なんて美しくデリケートなものか。
目線の少し先に、病室で花を差し出す幼い女性が見えた。
手にはカスミソウ・・・いや、ナズナを持って。
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