陽だまりの季節

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 彼女の口は大きい。華やかで、笑うと外国の女優のような爽やかさがある……はずだ。  僕はまだ一度も見たことがない。  「藤子さん」  鬼灯藤子さん。  ほおずき、ふじこ、さん。  名前を呼ぶと、いとも簡単に振り向く。それでも、その唇はかたくなに閉ざされたままだ。時には、律義に「はい」と書かれたホワイトボードを掲げるが、それでも表情はまるで変わらない。  「実は、私の姪が…藤子さんの描かれるイラストの虜になってしまったようなんですよ。まだ小学校に上がったばかりなのに、なかなか見る目があるでしょう?それでその、サインが欲しい欲しいといってきかなくて、その…」  僕は自慢じゃないが文学部の出でボキャブラリーには自信があるし、それに周りも認める話し上手だ。でも、どうしても彼女の前になるとうまく話せない。いつまでたっても、慣れないのだ。  藤子さんは僕の言葉を聞くと素早く机に向かってしまった。それはもう、ビュンと音がしそうなまでに、その長い髪を振り乱すように。  煩わせちゃったかな…。  「あの、いや…その、失礼しました。ギャラもないのにこんな、個人的な用事を依頼するなんて…その、すみま」  がた、という音でうつむいていた顔を上げると、藤子さんがイラストの描かれたサイン用紙を差し出し、ほんの少しだけほおを緩めていた。もちろん、花――――今回はスイートピー――――を添えて。  「あ、よかった…てっきりご機嫌を損ねたのかと。うれしいなあ、姪が喜びます」  えっとスイートピーの花言葉はこの前調べて…。  「ん?『別離』、ですか?」  せっかくの微笑が消えた。少し不満げにこちらを見る藤子さん。  「…え、じゃあ『門出』…あ、そうか!さっき、姪が小学生になったって言ったから…」  よし、ビンゴ。綺麗にほほ笑んだ藤子さんは小さく拍手をしてみせた。  うわあ、可愛いなあ。  不躾にも僕はそんなことを思ってしまって、持っていたサインを取り落としそうになった。でもそんな僕なんて構わずにこちらに手を振る藤子さんは、やっぱり魅力的だ。  「じゃあ、今日はこれで。次の締め切りは来週ですから、体を壊さない程度によろしくお願いします…」  そういって僕は、人気イラストレーター・鬼灯藤子の部屋をあとにした。むせかえるような花のにおいを惜しんで…。
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