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数日後、インターホンの呼び出し音がなった。午後一時十七分。確か、娘の凛華が帰宅する時間だ。優子は玄関の錠を開けに出た。
「ああ……おかえ……り……、えっ……?」
玄関には若い男性が立っていた。ジーンズに白のティシャツが似合う小綺麗な男性だ。小柄だが肩幅があるように見える。大学生だろうか、小さなグラスのメガネが知的な青年だ。
――まあ、かわいい。弟にしちゃいたい。一人暮らしかしら……。
「あ、こんにちは……、僕、隣に越してきた、畠山と言います。あ、これ……」
優子より一廻りは年下であろう畠山は、ショートカットの自分の頭を撫でながら、〈ご挨拶〉と書かれた熨斗がついた小箱を優子に手渡した。
「ああ、わざわざご丁寧に……。何か困ったことがあったら、何でも聞いてね」
優子は畠山が帰ったあと、ドレッサーの前に座り鏡を覗き込んだ。笑顔を作る。ドレッサーに入れてあった明るめの口紅を引いてみた。それは通信販売で手に入れた物だが、年齢の割に派手すぎると躊躇っていたものだ。ペーパーで口紅のついた唇を押さえた。そこにふっくらとプリントされた自分の唇があった。
――この唇を畠山さんはどう思うだろうか。
三時過ぎ、娘の凛華が学校から帰ってきた。
「ママ、お腹空いたあ。あれ……?」
凛華は洗面所に入り、手を洗っている。
「はい、オヤツ……」
優子は、プリンを小皿に移し、缶詰めのサクランボを飾った。
「ママ……口紅、変えた? かわいいっ。ママ、違う人みたい」
「正解っ! やっぱり凛華は鋭いねえ」
優子は凜華の頭を撫でると、凜華は首を竦めた。
――修一さんは、気がついてくれるのかしら……。
午後十時頃、修一が帰ってきた。その手はなぜか首すじにあった。その顔は少し辛そうに見えた。
「修一さん、首……どうしたの?」
「ああ、少し捻っちゃった……」
「じゃあ、湿布で早く冷やさなきゃ」
「うん、でも少し良くなったから……」
「無理しないで……」と、言ったあと優子は「あなた……?」と修一に呼びかける。
――修一さん、私を見て。真っ直ぐに見て……。「口紅変えた?」って言ってよ。
修一はチラリと優子に目をやり、何も言わずベッドルームに入った。
真夜中に修一の寝姿を見ていた。
彼が寝返りを打った。
彼が痛いと言っていた首すじには、少し薄くなっているが小さな桜の花びらのようなプリントがひとつあった。
小さくて薄い赤紫色の花びら。
――えっ、これって……キスマーク?
優子が学生のころに、付き合っていた男性から胸の膨らみにキスマークをつけられたことがあった。それは、あまりも突然だった。その後、男性は嬉しそうに自分がつけたその〈プリント〉を満足そうに何度も指先で確認していた。キスマーク――それは自分の存在を伝える、いわばマーキングだ。
鳥肌が立った。今まで、誰かにキスマークをつけようという発想が、優子には全くなかった。もちろん、夫の修一にさえ……。
優子は眠れなかった。
――キスマークの主の私への宣戦布告?
優子は自分の左の二の腕に唇を当て強く吸った。
「痛っ!」
優子は、贅肉のない自分の二の腕についた小さな桜の花びらを指先で撫でた。
優子は夫の首すじについたキスマークのことをずっと考えていた。ようやく眠れたのは明け方だった。その日、優子は結婚してはじめて寝坊した。
キッチンテーブルの上に手紙が置いてあった。広告の裏に書かれたその手紙は娘の凛華が書いたものだ。
『ママ、おはよう。
ママはつかれてるから
お薬のんでネ。
学校はパパと行くから、
いっぱいねてネ。
りんかより』
りんか、とひらがなで書かれた名前の横にハートマークが添えられていた。
キッチンテーブルには食パンと牛乳が載ったプレート、その横には水が入ったカップと風邪薬があった。
――ありがとう。ごめんね。凛華……。
優子は自分の左の二の腕につけたキスマークを思い出した。そこに目をやる。儚い〈桜の花びら〉を指先で撫でた。
凛華が帰宅してから、夕飯の支度が始まる。その日はカレーライスだった。凛華も料理を手伝った。
「ママ、風邪よくなった?」
凛華の小さな手のひらが優子の額に触れる。
「うん、ママは凛華のお陰で治ったわ。ありがとう」と優子が言ったあと「凛華、人参、洗って……」と優子は人参を数本、凛華に渡した。
「うん、洗って、人参の皮を向けばいいのね?」
凛華は人参を洗ってから、ピーラーで丁寧にその皮を削ぎ始めた。
:
「凛華、お隣りの畠山のお兄ちゃんも呼んで来ようか?」
優子は出来上がったカレーを少し小皿に取り、味見をしながら凛華に言った。
「じゃあ、私、呼んでくるねっ……」
:
:
「ごちそう様でした」
畠山は手を合わせたあと、「ああ、美味しかったlと白い歯を見せ、喉を鳴らして水を飲み干した。
「お兄ちゃん、カレー……凜華も手伝ったのよ。ね、ママ?」
ダイニングテーブルのカレーライスと野菜サラダは、綺麗になくなっていた。
「畠山さん、毎日、きちんと食べてる? バランスも考えて食べなきゃダメよ」
ピンポン……。インターホンの呼び出し音が鳴った。
「パパだ!」
凜華が玄関に駆けて行った。すぐに、凜華は修一と手をつないでダイニングに入る。
「凛華、そろそろ寝ましょうね」と優子が言ったあと、「あなた、お隣りの畠山さんと、一緒にご飯を……」
「うん、ああ、家内と娘がお世話になっています。また、一杯……」と修一が缶ビールのプルトップを引く仕草をしたあと、「今日は少し疲れてるので、風呂に入ってから寝るよ」と言って部屋を出た。
――今日も……。
「ふう……」
優子が小さなため息をついた。
「畠山さん、お時間あります? もし、よろしかったら一杯お付き合いしていただけません?」
優子は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。
気がつけば五〇〇ミリの缶ビールが空いていた。畠山も同じだった。
優子は全てを打ち明けた。修一の浮気のこと。キスマークをつけて帰ったこともあること。
いつの間にか溢れた涙が頬を滑っていた。
「ご……ごめんなさい、私ばかり……話してた……」
「あの、…………」と、畠山が言ったあと、テーブル越しに彼の顔が近づいた。
「あ……」冷たい唇が涙が滑る優子の頬に触れた。子宮がキュンと鳴いた。畠山の唇はすぐに離れた。
「ああ、僕、ぼく……つい……ああ、ごめんなさい、ごめんなさい」
畠山は深々と頭を下げた。
息苦しいくらいに、優子の心臓が強く打っていた。身体が震えていた。
小さなグラスの奥の畠山の目を見た。色素の薄い彼の瞳の中に優子が映っている。
「ああ、畠山さん……」
優子が彼の顔を引き寄せた。唇を重ねる。舌先で、彼の舌を探った。彼の舌先が優子の舌に絡みつく。泡立つ唾液を交換し合う。
:
「畠山さん、また会っていただけませんか。今度は……」
「はい、ぜひ……」
畠山が玄関を開けた。
「ちょっと……」
畠山の首すじに唇を寄せた。
ちゅぱっ……。
「うっ……」
畠山の声が歪んだ。
「ありがとう……」
優子は畠山の首すじについた〈桜の花びら〉を指先で撫でた。
優子の心は弾んでいた。無意識の間に笑みが溢れる。こんなにワクワクドキドキする気持ちになるのは結婚以来なかったような気がした。指先で唇を触った。
ベッドで眠る夫の顔を見た。その顔はいつに無くスヤスヤと眠っているように見えた。
――ベェーだ。
バスルー厶に入った。
畠山のことを考えていた。彼の瞳に映った自分の顔。重なる冷たい唇。トロトロと交換する泡立つ唾液。彼の首筋につけた〈桜の花びら〉。どれも優子にとって新鮮だった。
薄い水色のショーツのクロッチには幾重にもついた輪染みのあとがあった。
ただ、今は熱を帯びた身体を冷ましたかった。優子は身体を清めるように冷水の飛沫を頭から被った。
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