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 その日も、優は絵を描き、聡は家計簿をつけていた。 「……なぜ本を返そうと思ったのか、兄貴はわかるか?」  聡は依頼人から受け取った金を数えながら言った。 「今まで借りたまま返さなかったのに」 「名前が書いてあったからじゃないの?」 「その前にも名前を書いた本を貸したらしい。それでも返ってこなかった」  優は絵を描く手を止めて考え始めた。  白い雪も解け、徐々に春らしい気候がこの町にも近づいてきた。まだこたつはしまえないが、冷えていた空気が暖かくなっていくのがわかる。 「……お礼を言いたかったんじゃない?」 「お礼?」 「ほら」  優は体を起こした。 「絵本が好きだったって言ってたでしょ? で、その小説も読んで、もっと好きになったから、ありがとうって言いたかったんじゃない?」 「最後、ごめんねって言ってたのは……」 「あれは、ほら、僕たちが借りパクしてるって言うのを話しちゃったから」  優はそう言うと「悪いことしちゃったね」と、頭を掻いた。  その時、ポストに手紙が投函される音がした。 「あ、郵便屋さん」  優はこたつを抜け出して玄関へと走った。 「聡! 明日香さんから手紙!」  飛び込むようにしてリビングへやってきた優は、聡に薄い青色の封筒を渡した。封を切って、白い便箋を取り出す。 「……良かった。お客さん、戻ってきてくれたんだね」  安堵する優に、聡は「兄貴、それ」と、優が描いていたスケッチブックを指さして言った。 「依頼人にその絵を送ろう」 「え、これ?」  優はスケッチブックを手に取った。 「それ、あの幽霊の絵だろ」 「聡も見たの?」 「いや。兄貴、いつも祓った幽霊のこと描いてるだろ」 「何で知ってるの?」 「前言ってただろ」  聡は立ち上がって、壁際に据え付けられた棚を漁り始めた。  そこから大きめの封筒を取り出すと、こたつの上に置いた。 「描き終わったらこれに入れておけ」  そう言うと、聡はまた家計簿と睨めっこを始めた。 「……珍しいね。聡がそんなことするなんて」  もぞもぞとこたつに潜り込んだ優がそう言うと、聡は鉛筆を手に取って言った。 「多分、依頼人は泉隼人のことが好きだったんだろう」 「……何でそう思ったの?」  優は振り返って聡を見上げた。 「借りパクされるのに本を貸し続ける奴がいるか? それに」  鉛筆を止めて、聡は言った。 「兄貴が泉隼人の言葉を伝えた時の依頼人の目。あれは、恋をしている相手を見る目だった」 「え、どんな目?」  聡は優を見て、「さあな」と笑った。 「兄貴も恋をすればわかる」 「聡は恋したことあるの?」  そう聞かれた聡は、動きを止めた。 「……まあな」 「どんな人?」 「内緒だ」 「ケチ」  口を尖らせた優は、またスケッチブックに鉛筆を走らせる。  いつもどおり、兄弟ふたりは、また静かな日常に身をゆだねた。  この町に本格的な春が来るのは、もう少し先になりそうだ。
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