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突然の誘い言葉が詰まる。
「ちょっ、ちょっと。どうして俺が須藤健一だと思うんですか?人違いかもしれないじゃないですか」
「ねえ健ちゃん、いい加減怒るよ」
この女は本気で言っているのだろうか。山田は見覚えのない彼女の顔をじっと眺めた。もしもこれが本当の事だったら、自分は今須藤健一の人生を生きている事になるのか。いや、どうせ出品者のお遊びに決まっているのに、考察をするなんて馬鹿らしい。
優柔不断に唇をもごもごとさせていると、前澤花はぐっと山田の腕を引っ張った。
「ほら行くよ。いつもの場所でいいよね?」
「えっえっ」
結局、訳の分からぬまま彼女に圧倒され、流されてしまった。
訪れた個人経営の喫茶店は狭く、席は数席しかない。全体的にウッディーで照明も暗かった。年老いたオーナーが一人、カウンターの中で寡黙に佇んでいる。四人テーブルのソファーに、向かい合って座る。前澤花はメニューも見ずに「私アイスコーヒーにする。健ちゃんは?」と言った。紙一枚のメニューを手で拾うものの、緊張でろくに読みもせずに山田はコーラを頼んだ。
「コーラなんて珍しいね。いつも同じもの頼むのに」
前澤花はよく笑う人だった。正面に座って初めて気づいた。コーラルピンクから覗く整列された白い歯の一つは八重歯で、それが彼女の幼さや懐っこさを十分に演出させていた。
大して客がいない為、二人の注文はすぐにテーブルに運ばれてきた。コップを引き寄せストローを啜る。舌の上で気泡が弾けた。女と話す事自体久しぶりだったから、まるで話題が思いつかない。黒い湖に沈む氷をからからと掻き混ぜて、目を合わせないでいると、前澤花が話しかけてきた。
「そういえば最近お菓子作りにハマってるの。健ちゃんにも作ってあげようと思って。でね、初めてクッキーを作ったんだけど、なんと失敗しちゃった。お菓子作りって難しいんだね。何だか科学の実験みたい」
山田は前澤花の話が全く頭に入ってこなかった。
「あの、これ何なんですか?」
「ん?これって何のこと?」
「今俺達がこうしている状況の事です。これってドッキリですよね?」
「ドッキリ?」
「本物の須藤健一に頼まれて、俺の事を面白おかしくからかってるんでしょう」
「え、ごめん。健ちゃんの言ってる事分からない」
「例のフリマアプリの事です。この前須藤健一の明日を買った。だから君は、本物の須藤健一に俺とデートしてこいって頼まれたから、今こうして俺と一緒にいる。そうでしょう」
前澤花は悲しそうに眉を下げた。
「本物の須藤健一って、それは今私の目の前にいるよ?どうしちゃったの健ちゃん」
「俺、フリーターだからお金ないです。もし騙してお金をとるつもりなら、どうか見逃して下さい」
山田は勢い良く頭を下げた。
「健ちゃん、顔を上げて」
和やかな声がした。山田が顔を上げると、和やかな微笑がそこにあった。
「フリマアプリの事とか、よく分からないけど、私は今日健ちゃんに久しぶりに会えて嬉しかった」
「……」
「健ちゃんは明日を買ったって言ったけど、私だったら明日じゃなくて、過去を買うな。そうすれば一生健ちゃんといられるもん」
前澤花は笑っていたが、どこか強ばっているような気がした。そんな彼女に声をかけようとするが、何一つ上手い言葉が思い浮かばない。
「すみません、何か」
「ううん。いいの、気にしないで。もう帰ろっか」
と言って、前澤花は席を立った。
「あ、俺が……」
ズボンのポケットから財布を取り出した時、彼女はすぐに伝票を取った。
「私が誘ったんだからここは私が払うところでしょ。健ちゃんは外で待ってて」
颯爽とレジへと向かっていった。情けないが、毎日当たり前のように金欠気味な山田にとってはありがたい、お言葉に甘えて一人店から出て行った。
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