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夏
じりじりと焦がすように照りつける日差しに、ぬるい風が吹く。服が肌に張り付く感覚が嫌で仕方がない。汗が止まらず、歩くのも億劫になってきた。アスファルトの上には自我を持っているかのような陽炎が揺らめき、こちらを見ている。夏は嫌いだ。温度調節がしにくい。世間は、海に行くだとか、プールに行くだとかいって涼を得ようとしているが、私は水に濡れるのが嫌いだ。だが、そんなことだとこうも困るものなのかと、歳を重ねることで気付いた。もう少し水と触れあうべきだっただろうか。今更後悔しても仕方がないのだが。こんな性格だから、学生時代は夏に遊びに誘われることは極めて少なかった。外に出ていると文句しか垂れない私に厭気が差したのだろう。私自身、嫌な思いをしてまで人と遊びたいと思うような人でもなかったから良かったものの、夏の間友人に会えないことは少しばかりストレスだった。
一度、我慢してでも遊びに行ってみよう、そう思ったことがあった。小学三年の夏のある日、友人に海へと誘われたのだ。泳ぐのは得意ではなかったし、あまり濡れたくなかったが、浅いところで水に触れる程度だろうと、暢気に考えていた。連れて行かれたのは、海水浴場でもない、家の近くの海。ここ、泳げるんだ。その程度にしか考えていなかった。友人の母親がお守りとして来てくれていたため、少し気を抜いていたのもあっただろうか。私たちは波打ち際で遊んでいた。砂でお城のようなものを作ったり、貝殻を拾ったりして遊んでいた。そして、私は少し水に触れてみようと、海の方へと近づいていった。
そのときだった。友人に、背中を押されたのは。海水で緩んだ砂地に立っていた私は、いとも簡単にバランスを崩して、倒れた。友人の笑い声が聞こえる。これくらいなら、全然怒るほどでもない、むしろ楽しいじゃないか。濡れてしまったのは少し癪だったのだが。そんな暢気なことを考えていられたのは一瞬のうちだけだった。倒されるタイミングが悪かった。ちょうど少し大きな波が来ているときだった。引き波は、かなり強かった。私の体は簡単に海の方へと引っ張られる。身長120cmほどの私はすぐに足が着かなくなった。友人の母の悲痛な叫び声が聞こえてくる。嫌いな水。それに囲まれる恐怖と、泳げないことに対する焦りで、私は、藻掻くことしかできなかった。その頃はまだ水辺の救急法のようなものは普及して居らず、限られた者しか知らなかった。例に漏れず、私も知らなかった。このまま死ぬだとか、どうしようだとか、そんなことすら考えられないほど、焦っていたのを今でも鮮明に覚えている。
偶然近くで釣りをしていた男性がいなければ、私はきっと溺死していただろう。その人には今でも感謝をしている。後になって知ったことだが、あの海岸は離岸流がすこしあるらしく、対処を知らない人は確実に戻ってこれないというところだった。助けてくれた男性はこのことを知っていたらしい。
夏は、嫌いだ。思い出してしまうから。助からなかった彼のことを。私のために犠牲になった、彼のことを。溺れる私を助けるために、咄嗟に海へと入った彼のことを。一番の友人だった、彼のことを、思い出してしまうから。あのとき、男性にも余力はなく、一人しか助からない状況だったらしい。彼は自ら、先にその子を、と言ったという。すぐに母親が消防を呼んでいたらしく、私が助かると同時に到着していた。だが、既に手遅れだったのだ。彼は、私からいろいろなものを奪っていった。思い出も、親友も、そして、夏を楽しむという、気持ちも。彼は、私から奪ったのだった。
私は歩き続ける。あの事故以来、泳ぐのは危ないという理由から防波堤へと変わってしまった、あの場所へと。滴る汗を手で拭い、陽炎が嗤うアスファルトを、ひたすらに歩く。
「嫌いだよ、夏は。本当に。」
こぼれ落ちたのは汗か、はたまた涙か。知る人は居ないだろう。
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