序章 孤独な旅立ち

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序章 孤独な旅立ち

鏡に写る自分の顔は 歪んでいた 真っ赤になった目と頬 切り傷だらけの口元 まだ溢れ出ている涙 私は震える手で 鏡台の上にあるナイフに手をかける そのナイフを強く握り締め 刃先を『髪』に当てた 昔から『父』がよく言っていた 「女性の長い髪は、『魔』を払う力がある  髪を大切にしていれば 守護神様方が守ってくださる  様々な災難 不幸を避けてくださる  だから 女である※※※※は その髪を大切にしなさい  そして 髪に毎日『念』を込めなさい  今日も 穏やかで 暖かい日である事を願いながら」 でも、そんな父の言いつけを忠実に守っていた私に降りかかる災難と不幸は、突然すぎた。 終わってしまった、穏やかで暖かい日常。そして、無残に取り残されてしまったのは、私ただ一人だけ。 私は、全てに裏切られたのだ。父の説法も、平和を願う心も、全てが踏みにじられた。 自分が今まで信じていた『両親』も、大好きな『弟』も、全員私の前から消えてしまった。 会いに行っても、そこは『墓場』。何度両親の名を呼んでも、何度弟の名を呼んでも、返事なんて当然返ってこない。 それでも、私は数日の間、墓場から離れる事ができなかった。親戚の何人かが私を連れて行こうとしても、私は彼らを振り払ってでも、墓場で家族を待ちたかった。 いつか母が読み聞かせてくれた絵本、 「亡くなってしまった母に願いを込めていた女の子が、大雪の降る  冬の夜、天から舞い降りた母や祖母に抱きしめられる  そして、皆で一緒に光溢れる天界へと導かれる」 私は、懸命に願い続けた。 朝から、晩まで。 墓場で、教会で。 どんなに眠くても、どんなに疲れていても。 ただただ、両親や弟に、もう一度会いたい。 その為なら、どんなに時間を割いても構わない、どんなに苦労しても構わない。 直向きに願い続ければ、きっと願いは叶う。また両親と弟で、暖かい食事が食べられる。一緒に笑い合う事ができる。 でも、私のそんな健気な思いは、無情に過ぎていく時間によって汚されてしまった。 何日願っても、何ヶ月願っても、私の願いは一向に実らない。それどころか、『家族を失い狂った人』と、後ろ指を刺される始末。 もうその頃から、私には分かっていた。私の行っている事が、全て『無意味』であるという事に。 そう、どんなに神に懇願しても、死んだ人は帰ってこない。どんな手を尽くしても、どんな善行をしたとしても・・・。 父も母も、そして弟も、清く正しく生きていた。なのに、突然皆の命も、未来も、無慈悲に消えてしまった。 私は、手に持ったナイフを上へ振り上げ、髪を切り捨てた。そしてその瞬間から、私は『過去』を捨てた。束ねた髪と一緒に。 穴を掘り、その中に髪を入れ、埋めた。幼い頃からずっと髪が首を覆っていたから、頭が軽くなった気がした。 いや、私の頭を重くしていたのは、束ねていた髪だけではないのかもしれない。 私の頭にあった筈の『勝手な希望』も『勝手なハッピーエンド』も、髪を切ったと同時に消えてしまった。 そして私に残ったのは、『決意』だ。その『決意』を固める為に、私は家中にあった物を全て燃やした。 父の使っていた食器も、母が大切にしていたドレスも、弟が大切にしていた本も、全て。 きっとこの光景を観た人達は、私が『狂人』に見えてしまうだろう。 でも、もうそんな事どうでもいい。だってもう、この場所からは立ち去るから。 山を超えた事なんてないけど、この場所でずっと篭っているより、山を数日かけて超えた方がよっぽど気が楽だ。 どうせなら、家ごと燃やしてしまおうかとも考えたけど、山自体に火が燃え移ったら、最悪人の手によってあの世行き。 どうせ私が去ったこの場所に、人が来る事はない。誰にも知られず朽ち果てるだろう。 荷物が多くなるかもと考えていたけど、過去や期待を殆ど投げ捨てて、最終的に私の手元に残ったのは、数枚の着替えと、お金のみ。 それらを背負って私が向かう場所も、今はまだ分からない。でも、私の行動に後悔も迷いもなかった。 むしろ、今の方が清々しい気分な気がする。道のない森の中を歩いていても、恐怖はあまり感じない。 私の背で遠のく家に対し、「さよなら」の言葉さえも出てこなかった。それは、未練なんて無い証拠なのかもしれない。 あっという間に家は木々の中に隠れ、吹き抜ける風が私の背中を押している感覚がした。
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