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出港
1週間ぶり出るサディの海は、一見していつもと変わりがあるようには見えなかった。
抜けるような高くて青い空に、紺碧の海。それと、キラキラと輝きながら揺らめく白い波。幸いな事に風向きも悪くはない。出来るだけボイラーの石炭を温存させて帆の力を使いたいから、風向きが味方してくれるのは有り難い。
「静かだな……」
この穏やかな海の何処かに、本当にレビィアタンは来ているのだろうか? もしかして10月に姿を現していたのは昔だけで、今はいないとか? いや……そうではあるまい。
「……キャプテン、本当にいいんですかい?」
副キャプテンを任せているジョージが、心配そうに白髪交じりの髭面を寄せてくる。
「何がだ?」
ジョージが何を言いたいのかは分かっているが、知らん顔をする。
「いやぁ……あれですよ」
ジョージが視線を送るフォアマストの上で、檣楼(檣はマストの意、見張り台のこと)に陣取るリサの姿がある。
「チェスター号の元船員だか何だか知らねぇが何処の輩とも知れねぇあんな女の言うことを聞いて、万が一にもレヴィアタンと出くわしたら目も当てられやせんよ?」
無論、ジョージの不安も分からなくはない。わざわざリスクを冒してこの海域にオレ達が出る意義は薄い。
が、しかし。
「……出港前に皆んなぁ集めて言っただろうが。『今度ばかりは命の保証は出来ねぇから、嫌なら来なくていい』って。それを承知で乗船しておきながら、今さらグダグダ言うんじゃぁねぇよ。何しろ貰う物は貰っちまって……すでに造船所へ発注を掛けちまったからな! これで良くも悪くも来年は新造船だぜ!」
ふふ……と肩を揺らして腕を組む。少し冷たい潮風が頬を掠めていく。
「いやまぁ、確かにそう聞きやしたけどね。でも、こうも言いやしたよね?『嫌ならいいけど、その代わり2度とグランパス号の船員を名乗るな』って。『そんな度胸の無い弱虫はオレの仲間なんかじゃぁねぇ』って。……そいつぁ殺生ですぜ」
ジョージが不服そうにむくれ、手をかざして海の彼方を溜息混じりに見つめる。
「海に出る契約は1ヶ月でしたっけ? まあ、こうなったら『とにかくレヴィアタンと出くわさない事』を祈るしか無いと腹ぁ括ってやすけどねぇ……」
確かに如何に相手が巨体とは言え、この広い海で『たった一頭』に遭遇する確率は低いかも知れない。それに相手は生き物だ。どういう気まぐれを起こすか分かったものではないし。
だが……。
「『出くわさない』って? その心配は無用だろうな。ヤツは、そう遠くない所にいるぜ? 多分な」
眼を閉じて、己の鼻に神経を集中させる。
「潮風が……いつもより『薄い』と思わねぇか?……『魚』の匂いがしねぇ。よく『海の中は見えねぇ』って言うが、魚がいる時は『匂い』がするんだよ。それも『濃い匂い』が。オレはその匂いだけで魚種まで分かるんだ。だが……今は獲物の匂いがしねぇ。少しだけシャチの気配がするが……皆んな、逃ちまってんのさ」
それが絶対的な海の支配者が近いを事を意味しているのは、間違いあるまい。
「やれやれ……まったく、イカれてやすぜ」
心底呆れたというように、ジョージが檣楼を見上げる。
「仮に首尾よくレヴィアタンを『見つけた』として、どうやって退治するつもりなんで? いくら最新型の火薬式とは言え、相手はクジラじゃぁなくって『悪魔』の異名を持つ化け物なんでしょ? ウチの船の捕鯨砲如きじゃぁ到底歯が立つとも思えやせんが」
それは決して容易ではあるまい。相手はシロナガスクジラよりも更に何倍も巨大な『悪魔』なのだ。
「いや……それがな」
フォアマストの下に縄で括り付けてある『それ』を親指で指差す。
「あれが、その武器なんだとよ」
視線の先にあるのは、人間の身長とほぼ同じ長さの銀色に光る『弓』だった。同じところには牛革で作られた矢筒らしきもの縛られている。その中には同じく銀色に鈍く光る矢が数本と、『これだけは絶対に触るな』とリサが言っていた毒々しい黒色の矢が1本。
「え……」
思わずジョージが言葉を失う。
「あ、あれがですかい? 『あんな物』で戦う気なんで? 捕鯨砲とかじゃなくてですかい?」
とても信じられないというように、ジョージが声を上げる。
「ああそうだ。あの女、前に乗っていた『チェスター号』でも、あの弓を使って『巨大クジラを仕留めていた』そうだ。アレは弓とは言ってもとんでもなく強い弓で『あの女』しか使えねぇんだと。その破壊力をキャプテン・シルバーに惚れ込まれて、ずっとコンビを組んでたらしい……」
オレも初めて聞いた、チェスター号が高い漁獲量を上げていた秘密。
「たかが弓で、ですかい?」
ジョージは全く信じていないようだが。
「ああ、少なくとも嘘ではねぇらしいな。オレも俄には信じられなくって実際にあの弓を引いてみたが、途轍もなく固くて『びくともしなかった』よ。ところがそんな剛弓を、あの女は軽々と引き絞るのさ。ほとほと、その膂力の強さに舌を巻いたよ」
「あんな細腕でねぇ……」
信じられない、とばかりにジョージが溜息をついた。
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