1人が本棚に入れています
本棚に追加
E氏は最近、ある遊びに熱中している。それはいわゆる盆栽というもので、自分だけの小さな庭をいじくって楽しむのだ。水をやったり、枝を切ったり。近隣に住む者たちもE氏のこの遊びを面白がって、こぞって同じことをやり始めた。しかし、皆思うような庭作りができないらしく、度々E氏のもとへ相談に来る。
この日は、E氏の隣に住むM夫人がやってきて、手入れのコツを尋ねた。
「Eさん、どうすればあなたのように綺麗なお庭が作れるのかしら。わたくしも一生懸命水をやったり、光を与えたりするのですが、枝の一本も生えてこない。たまに変なキノコみたいなのが生えているのを見かけますけど、気持ち悪いのですぐにちぎり取ってますわ」
M夫人はそういいながら、自分の盆栽を差し出して見せた。それを見てE氏は言った。
「ははあ、どうやら水も光も、足りていないようですな。あなたは一生懸命やっているつもりでも、こんな雀の涙みたいな水では、すぐに蒸発して消えてしまいますぞ。キノコが生えただけラッキーと思うべきでしょうな。光に関しても同様。どうです、私の家は日当たりがいいから、しばらくここに置いてみては?大丈夫、その間の世話は私がやりますよ」
しかし、あまりにも辛口で直接的な物言いに気分を悪くした夫人は、結構ですわ、と言い残してそのまま帰っていった。E氏も少し言い過ぎたかなと思いながら自分の盆栽に目をやると、砂の中から見たことのない灰色の枝が、針のように伸びてきていた。なかなか面白いと思ったのだが、こんな鋭い枝をうっかり触ったら怪我をしてしまうだろうと、ハサミでちょん切ってしまった。
その翌日も、E氏を訪ねる者があった。今度はふたつ隣のM氏だ。M氏は小さな盆栽を、フライパンに乗せたまま持ってきた。E氏はそれに触れた瞬間、あまりの熱さに手を引っ込めて喚いた。
「一体何をしたのです。……いや、聞くまでもないでしょうが」
M氏は苛立ちを少しも隠さぬ表情で答えた。
「聞いてくれ。植物が育つには光が必要不可欠だというから、わしはこれでもかというほど光を与えたのだ。しかしそれでもコケのひとつも生えないから、むしゃくしゃしてフライパンでカリカリに焼いてやった。もうこんな遊びはこりごりだ」
E氏が悪いとでも言わんばかりにまくしたて終えると、大きな足音を立てて帰っていった。
まったく理不尽な男だ。面白そうだと言って勝手に始めたのはそっちだろうに。E氏もつい不機嫌になって、いつもより乱暴に水やりをしてしまった。
「ああ、しまった。水浸しだ」
慌てて水を落とそうとして盆栽を上下に振ると、こんどは土にひびが入ってしまった。
「まったく、今日はろくでもない日だ」
次の日は、誰もE氏を訪ねてこなかった。このごろうるさい来客にうんざりしていたE氏は、久しぶりに自分の盆栽に没頭できた。水と草木が調和した美しい風景を眺めていると、突然、ポン、という破裂音がして、草木の一部分から黒い煙の糸が立ち上った。何事かと思い顔を近づけると、煙の中に微かに赤い光が見えた。それが小さな火種だと気づいたE氏は慌てて水をかけ、なんとか火を消し止めたが、煙の嫌な臭いはしばらく消えなかった。まったく不思議で、危険な盆栽だ。これでは片時も目を離せない。
その日は結局一日中盆栽を眺めていたE氏だが、夕方になると、また新たな発見をした。
草木の中から、黒光りする枝が何本も伸びている。触れてみると、鋼鉄のように冷たい。あるいは本当に鋼鉄なのかもしれない。いずれにしてもこれでは触りにくいし、景観もあまり良くない。面倒だが、全て取り除いてしまおう。
だが、一日中盆栽につきっきりだったE氏はさすがに疲れて、作業は翌日にすることにした。
翌朝。目を覚ましたE氏は、自分の体に違和感を感じた。とてつもなく、重い。立ち上がれる気がしなかった。なんとか体を回転させてうつ伏せになり、そのまま盆栽を置いてある庭まで這っていこうとした。だが、ほんの少し動くだけで強烈な頭痛が襲ってきて、今にも意識を失いそうになる。だめだ。あの盆栽の面倒を見なければ。私でなくてもいい。頼む、誰か盆栽をーーー。
暗黒の視界に、光が戻ってくる。E氏は微かに涙を浮かべた目で、真っ白な天井を見つめていた。ピッ、ピッ、と規則的に鳴る機械音。視線を下ろすと、チューブに繋がれた自分の腕が見えた。E氏は、自分が病院にいたことを思い出すと同時に、夢の内容をほとんど忘れてしまった。隣には心配そうな顔の看護婦が立っている。
「大丈夫ですか?また怖い夢でも……?」
看護婦は尋ねたが、E氏は
「いや……」
とだけ答えて、窓際に置いてある盆栽に目をやった。ここへ入院する時に、無理を言って置かせてもらった盆栽。E氏が大切に育ててきた、黒松の木だ。もっとも、おおかた焼け焦げて、葉はひとつも付いていない。残っているのは、炭と化した幹だけである。だが、E氏はその太く立派な幹が大好きだった。黒く焦げていても、確かに根を張ってそこに植わっているのだ。
窓から西日が差し込んで、黒松のシルエットがより黒く、はっきりと浮かび上がる。それを見たE氏は満足したように、また静かに目を閉じた。
最初のコメントを投稿しよう!