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そんなこと言われたって。⑯
***
翌日の美佳は、困惑の中に身を投じていた。
これまで優のせいで数多の女子に邪険に扱われる事はあっても、至れり尽せりの姫対応は初めてだ。彼女たちなりに責任を感じてのことだろうが、それ以上に真実が優に語られることを恐れているのは明白だった。
余計な争い事を望まない美佳としては、この先も話すつもりなどないけど、それでは少しも安心できない心境は分かる。
それがあからさまな媚び売りだとしても、それで彼女たちは安心を買えるなら、きっと安いと思うのだろう。
「安西くんのことだから、美佳をこんなにした相手を黙って見過ごすのに納得してないと思うけど、バレたら地獄絵図が教室に展開されるのは勘弁よね」
先日、部活で早々に教室を出てしまった事を後悔しているさつきが、加害者たちを一様に眺めて言った。そこに追い打ちを掛けるのは菜摘だ。
「先ず間違いなく美佳と同じように相手の間接を外し、筋肉と腱を捻切って晒し者にするわね。しかも絶対に相手の利き手を狙ってくるわ」
この二人の下す優の評価が正当過ぎて、返す言葉がない。
ここは『そんな事ないよ』とでも言って優を弁護するところなんだろうけど、元来美佳は嘘が苦手である。絶対に説得力ないのは自分が一番知っている。
転んで脱臼したと言い張ってはみたものの、美佳を知り尽くしている優が本当に信じているとは思っていない。肩を抜いたのが男子生徒だったら、確実にその場で血祭りに上げられていただろう。
(女の子で良かったよね、うん)
登校して来て、完全に脅えきっている加害者たちの貢ぎ物が机に並び、雁首を揃えての謝罪には驚いたけど。
(学園もののドラマ並に恥ずかしかったわ)
なので今後一切は勘弁して貰った。ただし、治療費だけは何としてでも受けとって貰わないと、何らかのトラブルになった時に、自分たちが困るからと言っていたので、それは遠慮することなく受け取ることにした。
もう一人の加害者は、今日もお弁当持参で教室に迎えに来た。さつきと菜摘はかなり渋い顔をしていたけど、美佳が何も言わないので口を出してこない。彼女のすぐ後ろに優がいたら迂闊な事も言えないだろうし。
加害者ではあるけれど、葵が居てくれなかったら困ったのもまた事実だ。
クラス女子は相変わらず葵には塩対応だけど、流石にもう美佳を絡めてとやかく言うことはしなかった。一発触発な空気は漂っていたけど。
(喧嘩を率先して止めるつもりないけど、毎度毎度この人たちの喧嘩に巻き込まれたくないもんね)
どうしたって気に入らない相手はいるもんだ。それを周りがとやかく言ったところで、本人たちは聞く耳なんて持っていないだろう。
仲良くなってくれたら理想だけど、美佳が無理強いしたところで拗れるだけなのも解っている。
今日は中庭に行こうか、となって六人でぞろぞろ歩いて行く。
その道すがら、葵が肩の容態を訊いてきたのに答えていたら、急に彼女は黙り込んで美佳の首元を注視していた。
アームリーダが捩れているか何かしたのだろうかと、美佳は首元に手を伸ばして紐の部分に触れた。同時に葵の手が伸びて来て思わず首を竦めると、彼女は襟元を引っ張って舌打ちした。
(…な、なんで舌打ち!? あたし機嫌損ねることした?)
訊かれたことに答えながら、普通に歩いていただけだ。そこに葵の機嫌を逆撫でするような話はなかった。恐らく。
恐る恐る葵を見れば、彼女は眼を眇めて美佳を見た。そして大仰な溜息を吐く。
「一か月どころか一日も保たなかったのね」
何を言われたのか分からずに、首を傾げた美佳の首筋に指を立てる。
「キスマーク付いてるわよ?」
「げっ」
葵の指が触れたとこに手を当てて咄嗟に隠したが、今更だ。耳まで真っ赤になっている美佳に、「阿保らし」と吐き捨てる呟き。
二人のやり取りが聞こえていた面々が、二人に視線を寄越した。
「一か月も手出ししないなんて無理って言ったじゃん」
全く悪びれた様子を見せない優に、偶には無理しようよ、と美佳が心の中でツッコミを入れているその後ろで、菜摘が口を開く。
「ホント本能に忠実過ぎる。尽々美佳が哀れだ」
溜息混じりに言った菜摘の目が潤んでいる。しかし優はにっこりと微笑んで、
「魂レベルで刷り込みされているからな」
「褒めちゃいないからね? 少しくらい遠慮と言うものを学習したら?」
無駄な助言と知りつつも尚も言い募れば、優は意味がわからないと言わんばかりの表情で菜摘を見返した。
「俺と美佳の間に必要か?」
「親しき仲にもって言葉を知らないかな?」
「俺と美佳には関係ないだろ」
「あんたがなし崩しにしてるんでしょうがッ」
「問題ない。喜んでるし」
そこで指を差された場合、どう対処したものだろう?
肯定しても否定しても、恥ずかしいことに変わりない。
(ここで号泣しても、いいかな?)
どうしてこんな男が好きなのか解らない。
(絹~ぅ。何でコレだったの? 惣さんもイッちゃってる人だったけど、ここまで酷かったっけ? あたしちょっとギブしても良いかな?)
嘗ての自分に語り掛けながら、涙が浮かんだ真っ赤な目で優を見る。すると彼はむっと眉を寄せ、美佳にヘッドロックを仕掛けて来た。
「み~か。碌でもない考えは捨てろ。どうせ逃げられないんだから」
「……心の中読まないで」
入れ替わった状況で、優から逃げるチャンスなどなかった。
そこまでして二人を引き戻した呪縛。
「優の粘着気質は、嫌って程知ってる」
がっくり項垂れて言うと、優と葵以外が吹き出した。
優が俄かに眉を顰めると、田端が可笑しそうに口を開いた。
「時間まで凌駕するストーカーだもんな」
「時間…?」
葵に訊き返され、ついいつもの調子で喋ってしまった事に気付き、田端は急速回転させた思考回路から適切な答えを弾き出した。
「安西のお姉さんに聞いたんだけど、わらしに追いつくのに一か月も前倒しで生まれ急いだ男なんだってさ」
「ああ。それなら私も大貫さんって人に聞いたわ」
優の叔父、千歳の働く興信所の所長に取っ掴まって聞かされ、まんまと優に逃げられた過去が思い出された。渋面になった葵に、「そゆこと」と田端はホッとした色を浮かべ、こっそり優と美佳に手を合わせた。
六人は芝の上に腰を下ろし、お弁当を広げる。
葵はまた美佳と優のお弁当を覗き込み、
「美佳作れないのに一緒なの?」
「お母さんが作ってくれたから」
「俺の身体は和良品家のご飯で出来てると言って過言じゃない」
疎遠の間も、佳純はしょっちゅう姉弟のご飯を家に届けていた。仕事で不在が多い安西の両親をカバーしてきた佳純のお陰で、成長期にも問題なくすくすくと育った。
(優は育ち過ぎよね)
小さい頃は美佳の方が断然大きかった。なのに気が付けば、優は軽く百八十を超えるまでに伸びていた。
美佳は生理が来てから殆ど成長が止まってしまったのに、不公平だといつも思う。
尤も安西家は長身一家だ。遺伝もあるのは分かっている。それに比べて、美佳は父方の祖母に似てしまったため、低身長のポッチャリさんになっていた。
(ちょっと気を抜いたら、横には成長するのが腹立つんですけど)
自虐的な思考に思わず頬を膨らませると、優が頭をポンポンする。
「抱き心地いいから、ぽよぽよを気に病まなくていいぞ?」
「だから何で心の中読むかな?」
仲違いしている時は、散々美佳をデブと詰ったとは思えない変わりぶりだ。
ぶすっくれている美佳の隣で、箸箱から箸を取り出し美佳に渡す優の甲斐甲斐しさに、周囲からの呆れ混じりの笑い。
「安西くんって意外とマメだよね」
苦笑を浮かべて見ているさつきに言われ、優は「だろ?」と頷く。
「右手しか使えないし、トイレも手伝うって言ってんのに嫌がるんだよな」
「それは当然じゃないかな?」
「今更だろ?」
優の含みのある言葉に、思い至った三人が「確かに」と声を揃えると、葵一人が解らずにムッとした。かと言ってこの五人の中に、図々しく余所者の自分が入り込んで行くことは何となく憚れたようだ。
面白くなさそうに葵はお弁当を口に運ぶ。
所構わずイチャつく優と美佳に、葵は苛立ちを露にした。
「美佳は何でそんなにヘラヘラ笑えるの? 喧嘩に巻き込まれて大怪我したのに、文句の一つも言ったら?」
突然キレ気味発言を浴びせられ、美佳はポカンと葵を見た。その間抜け面が葵の怒りに油を注いだようだ。
「あんた頭足りないんじゃない!? 普通怒るでしょ! しなくてもいい怪我させられたんだから、怒る権利あるでしょ! 何でそう平常運転なの!?」
美佳は何度も瞬きしつつ、憤りに顔を歪めている葵を見詰めた。
頭の中で言葉を探していると、美佳の代わりに菜摘が「この子はそーゆー子なの」と答え、「怒りが持続しないのよね」とさつきも頷く。そして二人は声を揃えた。
「「じゃなきゃ安西くんの相手なんて無理無理」」
「どーゆー意味だよ」
ケラケラ笑う二人に優がむくれると、田端が「まんまだよな」とさつきと菜摘に同意を求め、更に表情を険しくした優の肩を叩く彼は、心底愉しそうだ。
この三人が言う通り、怒りが長続きしない。無論、例外に当て嵌まる人物も若干一名いるが、結局のところ赦してしまっているので、三人が言っていることは外れていない。
美佳が思うに、怒りのパワーは絹の時に使い果たした。
惣一郎やその周りにいた女性たちに、死ぬまで憤り、恨みながら世を去った。ある意味それが絹の生きる力にもなっていたと思う。勿論、一人息子を置いて逝けない思いもあったけど。
「う~ん。怒るって、疲れる、じゃない? そんな生き方は、もおいいかなぁ、とかね、思うのよ。それで時間、無駄にしちゃったから」
もっと早く赦すことが出来ていたら、最期の時に後悔しなかった。
どんな仕打ちをされたって、どんなに憎んだって、最後に残った感情は愛しさだった。
自分の死に際を覚えているというのは、何とも言えない複雑さを醸し出す。美佳がウルッとしていると優が頭を撫でてくれた。
「何か老成した物言いなんだけど。美佳、同じ年よね?」
「一応。伊藤さんが四月の上旬に生まれてなければ、あたしが一番お姉さんだけど」
その翌日が優の誕生日だ。
葵は唐突に関係ないことを言い出した美佳をポカンと見、涙目の癖にほわほわした笑顔の彼女に脱力した。
「…ホント、毒気抜かれるわ」
「ははっ。なんか、ごめんね?」
「何で美佳が謝るのよ」
葵はちょっと頬を赤らめてそっぽを向いた。「でも…」と言葉を継ぎ、
「美佳のユルイとこが好きだって言った意味が、何となく分かったわ」
更に耳まで赤くして、誤魔化すようにお弁当を口に運んでいる。そんな彼女を微笑ましく彼らは眺めていた。
じゃあそこで優にラヴ攻勢を仕掛けるのは終わったかと言えば、否である。
優と美佳に嫌がらせをし、揶揄う事に新しい楽しみを見出した彼女は、卒業式当日まで手を抜くことなく二人に絡んできた。
彼女はアメリカに戻り、秋からあちらの大学に通うことが決まっている。それまではいろんなキャンプやボランティアに参加すると言って、渡米して行った。
それから六年。
愛なんて信じないと豪語していた彼女が、結婚したと絵葉書を寄越したのだ。
何処のビーチだろうか。
二人ともいい身体してるわね、と空かさず筋肉チェックをし、己がお腹を触ってどんよりとする。
それでも幸せそうに笑っている二人の姿に、美佳の口元にも笑みが浮かぶ。
きっと優も喜ぶ。
葵に振り回されて、いっそ文句を言っていたけど、女版田端と命名した彼女のことは気に入っていたから。
ベビーキャリーですやすや眠る息子の友禅を眺め下ろし、「幸せじゃあこっちも負けてないよぉ」と独り言ちると、美佳は友禅を起こさない様に優しく抱き上げた。
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