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或る朝の衝撃。そして二人は途方に暮れる ①
やっと楽になれる―――そう思っていたのに……
どうして?
寂寞感に魂が軋む。
***
いつもと同じように目を覚ました……はずだった。
下腹部にこれまで感じた事ない違和感を覚えつつも、ゆっくりと起き上がって大きく伸びをする。
(……ん…?)
何かが違う。
ぐるりと部屋を見渡して、首を傾げた。
まだ寝惚けてるんだろうかと、ごしごし目を擦り、ハタとして己の手に目を凝らした。見た事もない節張った大きな手がある。
(…あ……アレ…? 何か、変?)
もう一度、ぐるりと辺りを見回した。
見た事があるような、ないような部屋。はっきり言えることは、ここが自分の部屋ではないと言うこと。
そして……。
恐る恐る自分の顔に触れ、ごくりと息を飲んだ。そして今以上に戦々恐々とした面持ちで、やたらと主張するような違和感を訴える下腹に視線を落とす。知らず震えてくる指に精一杯の力を込めて、上掛け布団を捲り上げた。
黒のスウェットの下に、見慣れぬ異形の存在。
(…………きっと夢だ…うん。そうに決まってる)
自分はまだ夢の中にいて、これはきっと悪い夢だ。もう一度眠ったら、ちゃんと目が覚める…はず。
布団に潜り込んで、ぎゅっと目を瞑った。
(これは夢これは夢これは夢)
心の中で何度も繰り返した。
早く眠らなければ、そう焦れば焦る程、如何ともしがたい衝動に追い立てられていく。
ベッドの上でじりじりと体を丸め、全身で貧乏ゆすりする。
分かっている。こんな事したって、何の解決にもならないことぐらい。
しばらくそうやってやり過ごしたが、遂には脂汗が滲み、寒気がしてきた。
(や…やばい……ヤバイって。もお……限界)
このままでは間違いなく恥ずかしい事になる。
この年になって、それだけは回避しなければ、末代までの恥。
勢いよく布団から飛び出すと、足が縺れてフローリングの床に転がった。
違い過ぎる。何もかもが。
思っていた以上に体が重い。バランスが取れない。
しかしこのままここに呆けて座っている訳にもいかず、壁際まで這って行くと、壁伝いに何とか立ち上がった。カクカクと笑ってる膝を叩きつけ、何とか部屋から出られたものの、目の前の障害物に眩暈がした。
悠長に階段を下りている余裕は最早ない。が、一歩一歩確実に降りて行かなければ。そう思っていた矢先に踏み外した。
豪快な音を立てて階下まで滑り落ち、驚いた家人が廊下に飛び出してきた。
「ちょっと優ッ!? 大丈夫なの!?」
駆け寄って来た中年女性の顔をマジマジと見た。
(ゆう……?)
次の瞬間、我に返った。
体中が痛い。けどそれ以上に切羽詰まった状況。
心配して差し伸べられた手を払い除けて、立ち上がる。
(あ、チビった……ううっ)
“優” はふら付く足取りでトイレをスルーし、スウェットのまま隣の浴室に入ると頭からシャワーを浴びた。そして得も言われぬ解放感に大きく息を吐き出した。
そしてまた新たな試練が立ちはだかっている事に気付いた。
「…全身びしょ濡れ」
後先考えず、服を着たままお湯を被ってやり過ごしたものの、ずっとこのままお湯を被っている訳にいかないと気付いて、途方に暮れる。
壁に手を着いて項垂れた。ふと目に入った鏡。
「さっき “優” って言った…よね?」
自分から発せられた声も低くい。
腰を屈めて鏡の水滴を掌で払い、向こうに映った顔を見て愕然とした。
「優ッ! 大丈夫なの!?」
心配して声を掛けて来るのは、“優” の母親だ。そして忌々しくもそこに有る顔は、小学五年からずっと疎遠になっている幼馴染みの顔。
「返事くらいしなさい。大丈夫なの?」
曇りガラスの向こうで気を揉んでいる “優” の母親に「平気」と何とか声を振り絞ると、安堵のため息が聞こえた。そしてすぐに「着替え置いとくわよ」と出て行ったのを背中越しに聞き、視線を鏡に戻す。
濡れそぼって張り付いた髪は少し明るめの黒髪で、乾いている時は緩いウェーヴを描く猫っ毛。きれいな弧を描く眉と、黒目がちの双眸は切れ長のすっと二重のラインが入り、通った鼻梁と酷薄そうな薄い唇にシャープな顎のライン。
安西優。それがこの幼馴染みの名前。
嫌味なくらい整った顔をこうやって見るのは、実に六年ぶりだ。
しかし何故?
「選りにも選って優なわけ?」
ある日突然、一方的に絶交を言い渡された。それまで仲が良かったから、意味が解らず落ち込んだ。それからと言うもの、優の視界に入っていないかのような扱いを受け、たまに目に入ろうものなら、悪態の応酬に見舞われた。
憎たらしい顔がここにある。
高校でどんなにモテメンか知らないけど、高慢で意地の悪い奴だ。女癖も悪いって評判の男。
優(仮)こと和良品美佳は、何を思ったかいきなり両頬を捻り上げた。
「…っだ――――ッ!!」
恨みのあまり忘れていたが、抓れば痛いのは自分だった。
涙目で両頬を擦っていると、ドンッと背後で大きな音がして、ぎょっと振り返った。
「優ッ!! あんたいつまで風呂占拠してるつもり!? さっさと出ないとぶっ飛ばすわよ!?」
扉の向こうで喚いているのは、優の二つ上の姉。
「恵莉ちゃん」
「あッ!? なに気持ち悪いこと言ってんの!? うわーっ。鳥肌。お母さーん。優が何か変なんだけど!」
本気で気持ち悪がりながら、走って行った。
この姉弟すこぶる仲が悪い。毛嫌いしている弟に “恵莉ちゃん” 呼ばわりされれば、彼女の反応も至極当然だった。
「えりちゃん」
美佳と恵莉は姉妹のように仲が良いのに、何故だか今は自分が “優” なわけで、嫌われてる事が切なくなった。知らず嗚咽が漏れる。
意味の分からない境遇にめそめそ泣いていて、ふと疑問が沸き起こる。
(ちょっと待って。あ…たしが今 “優” なら、 “美佳” は誰…?)
脳裏を掠めた怖い想像。
もし “美佳” にも同じことが起きていて、中身がアレだったら?
「怖い怖い怖い」
優しいとは名ばかりのあの鬼畜に何されるか分かったもんじゃない。
「とにかく確認……ああッ!!」
美佳は肝心なことを思い出して、ガックリと膝を着いた。
「着替え…ヤダ。優なんかに触れないよぉ。てか触りたくないよぉ」
でもこのままじゃ我が身が危ない。このジレンマ。
どんなに葛藤したって頭の中をループするだけ、解決策なんて出て来やしない。
腹を括るしかない。どんなに虫唾が走ろうとも。
シャワーのお湯を止め、深く息を吐き出す。ぎゅっと目を瞑り、水気を存分に吸って重くなったスウェットの上を脱ぎ捨てた。ベシャッと音を立て、美佳の眉間にシワが寄る。躊躇しながらズボンを脱ぎ、更に眉間のシワが深くなる。最後の砦に指を掛け凝固する。唐突にしゃがみ込んでスウェットの水分を絞って、掻いてもいない汗を拭う。
(…逃げても意味ないでしょ、あたし)
大丈夫、と言い聞かせながら、勢いに任せてボクサーパンツを脱ぎ捨て、脱衣所に飛び出した。余計なものを見ないように注意を払いながら、籠の中のバスタオルを手にすると、「優! いい加減にしなさいよ!」といきなり扉が開いて、恵莉と目が合った。
お互い顔を見合って、つい彼女の視線を追っ駆けた。見るまいと心に誓ったモノをガン見して硬直している美佳に、恵莉は鼻で笑って扉を閉めると、愉快そうに去って行く。
(…………キモイ)
目を瞑り、天井を仰いだ。余りのショックに泣けてくる。この呟きを優が聞いたら何をされるか分かったもんじゃないが、正直キモイ。
見た事ない訳じゃない。
遠~い昔、父親とお風呂に入っていた時に、見た記憶はある。が…。
人生終わった。こんな体になってしまったのは、夢じゃないらしい。夢だったらどんなにいいか。
バスタオルで背中を拭く感触は、間違いなく自分のものとして感じる。
(…一生優に祟られるぅ)
どうしても彼のモノだけは拭けなくて、そこだけ省略して服を着たら気持ち悪かった。
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