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[2]化身
それは突然、全世界に対して始まりを告げた。
終わりの始まりを、である。
その未知のウイルスは年末を終末へと変えようとしていた。
脳に作用し、まるで同種族を自滅へと追い込む様に導く。
自滅への行進を始めてしまうのであった。
パンデミック。
地球は世界という名の下に分断されていった。
グローバリズムが跡形も無く消し飛んでしまったのである。
地球規模のサプライチェーンは動きを停止してしまった。
断絶。
あらゆる生産行程が一時的にせよストップしてしまった。
世界が一斉に自国の為のパイの分捕り合いを始める。
そして、その再開の時期が全く計算出来ない状態が続く。
自国ファースト。
ウイルスによる感染は拡大を続けていた。
死者の増大も止まる気配が無い。
全世界でワクチンの開発が急がれていく。
切り札はジョーカー。
各国がパンデミック後の世界の覇権の取り合いを始めた。
政治的な経済コントロールが先進国で急増する。
どさくさに紛れて国民は二重に苦しめられた。
火事場泥棒。
ウイルスは神の脳にも作用してしまったのだろうか?
それとも悪魔との覇権争いに苦慮しているのか…。
ウイルスが悪魔の力を増幅させているのは間違い無い。
人類の未来の舵を取り合っている。
…私は脳神経科の医院を経営している。
愛する妻には目前で先立たれてしまった。
その時に妻を死に追いやった男との格闘の末、肉体を失くす。
だが私の脳は一命を取り留めた。
そして、その脳は損傷した男の身体に移植されたのである。
妻の仇の肉体に、この私の意識は存在する事になった。
娘は私の新しい姿を容認出来ず、いつしか離れて暮らす様になった。
それは私に取っては死よりも辛い結果となる。
娘は、この自分の家庭教師の肉体に恋していた。
だが意識は自分の父親である。
恋愛感情を抱き続けられる訳も無い。
別離。
私の感情は妻と共に死んでしまった。
なので新たな自分自身に対する複雑な思いも消えた。
残ったのは最愛の妻を死に追いやった男の肉体だけ。
虚無。
医院の運営は副院長に任せて経営の裏方として研究所に籠る日々。
想像すら出来なかった若い肉体を手に入れたが所詮は容器。
ただ視力が回復しているので研究資料は読み易くなった。
研究対象はウイルスである。
憎悪の対象が亡くなって、その矛先が向いただけの事だが。
私には国賓レベルの警護がなされていた。
…私自身が、この肉体が実は国家機密であるという事らしい。
確かに人体間脳移植は国が認可していない。
緊急事態で副院長が秘密裏に副院長が指示し執刀したのだ。
そして唯一の成功例。
しかも手術スタッフの間では、まだ男は脳死していなかったとの噂。
だとすれば男は生存していたにも関わらず脳を…。
それが事実ならば法的措置を取られるレベルの事である。
自分の意思とは無関係とはいえ、この私も只では済まないだろう。
その不安から解消されたいが為にも研究に没頭していく。
研究すればする程に、このウイルスのプログラミングは凄い。
ある種類の感情が、いとも容易く理性の制限を超えてしまうのだ。
簡単に言えば本能を増幅させてしまうのである。
ウイルスに支配された個体が自己コントロール不能に陥る。
肉体的ではなく精神的な強毒性。
もし人類が他者への慈愛に溢れていれば、より幸福感が増すのだろう。
まるで天国の様な世界が出現する筈である。
だが人間は負の感情に支配され易い生き物だ。
つまりは闘争の発火点にしかなりえない、と言う事になる。
ウイルスによって人間の本質が露になった。
地球規模で建前が崩壊していった、では本音とは…?
これから全世界で起こる事は人類が自ら望んだ事である。
幾つかの先進国で都市封鎖を巡り政府と国民が衝突している。
同じ国民が互いを憎み合って争っていた。
彼等は実際にはウイルスに感染してはいないのだろう。
だが感染する以上に影響を受けてしまっているのは間違い無い。
ウイルスは労せずに脅威を拡大させてきた。
人間を知り尽くして、その弱点を突いている。
それこそ悪魔そのものではないのか?
領空海の侵犯を繰り返す国家も増えてきている。
ウイルスへの国民の不安感情を逸らす為でもあるのだろう。
このパンデミックを政治的な道具として利用しているのだ。
彼等は自分の立場の保身の為に、その目が眩んでいる。
…そんなキャスターの発言を私は聞き流していた。
独りで暮らす様になってから私はニュースしか見ていない。
それとウイルスに関する情報番組だけである。
ウイルスは作用するだけ、この状態を選択しているのは人類自身。
その事実に気付いた。
何故なら私自身にも説明出来ないぐらいウイルスが憎いからだ。
今回の騒動で妻を失くしたのも同然だからである。
それと同時に娘も離れて行ってしまった。
最愛の全喪失。
娘には全て説明した。
現在の私の容器、元は娘の家庭教師の肉体である。
妻との不貞関係は伏せておいた、だから知らない筈だ。
だが、どうしても受け入れられない彼女は私から去った。
責任というものが存在するならば、その全てはウイルスに在る。
娘には理解出来なかった。
母が転落死し、そして父と先生が一緒に事故に合ったなんて。
挙句に父と先生の肉体が入れ替わるだなんて…。
彼女は密かに家庭教師を慕っていたのだ。
理解しろという方が無理な話である。
彼女は母親と無意識の内に家庭教師の感情を取り合っていた。
その挙句に父親に姿形を乗っ取られた訳である。
当然その事実は彼女のキャパシティを軽く超えた。
彼女は、それを全て拒否してしまったのである。
そして彼女は父の許を去っていった。
母親の保険金だけで暮らせるのだから無理もない。
その彼女にも監視の目は光らせられた。
国家機密を、そうとは知らずに知っているのだから。
ニュースでは新興国の状況を報道していた。
次の話題は各国国境付近の不安定な政情についてである。
最早ウイルスは感染拡大なくして人類に勝利しようとしていた。
完全試合。
私はロックを解除して家の中に入った。
私の医院の上部階は私邸と研究施設である。
特に最上階の研究施設には数名しか入れない。
その奥に私の肉体は眠っていた。
副院長が執刀した時に、その肉体に男の脳を移植しておいたのだ。
男は感染し昏睡状態であると家族に説明された。
そして当医院で治療中である、と。
私の肉体と男の脳は一緒に眠ったままである。
決して目覚める事は無いであろう。
私は最愛の妻を奪った男を利用しようとしていた。
眠っている肉体をウイルスに感染させる。
そして既に完成させていたワクチンの臨床実験を行っていた。
サンプルは一体だけであるが、その結果は驚くべき程である。
ウイルスの増殖を抑え込んで弱体化させる事に成功していた。
自分の肉体だから実験に使っても罪の意識は低い。
「罪と罰」。
ワクチンは残された娘の為にと思っていた。
だが残されてしまったのは自分自身の方である。
私は自分自身で臨床実験を行っているのだ。
ニュースでは各国による経済的な駆け引きを報道していた。
どんどん少なくなっていくパイを奪い合う姿勢である。
皆でパイを作ろうという発想は無いらしい。
今ワクチンの開発に成功すれば世界の覇権に手を掛けられる。
と同時に巨額の利益を生み出す事が可能にも。
当然、情報は全て国家機密レベルとなる。
成功例なら尚更に。
これが映画ならば各国が協力して団結する展開ではないだろうか。
ハリウッドなら超大作になるのだろう。
そんな事を考えていたら副院長が研究室へと入ってきた。
「…どうですか院長、経過観察の結果は?」
「データを見てくれ、この通り完全に封じ込められている。」
「制圧ですか…?」
「まだサンプルは一体だけだが、その通りだ。」
「…凄い。」
「これで日本が世界を救う事が出来るな。」
「早速、政府に報告しましょう。」
「もうデータを送っておいたよ。」
「善は急げ、ですね。」
「ああ、これで世界は救われる。」
ニュースでは各国のワクチンの開発状況についての報道。
ワクチンが次の世界の切り札になるのは間違い無い。
そして同時に自国を地球のファーストへ導きたい。
そんな思惑が見え隠れする動向ばかりであった。
副院長は、その院長の報告を受けて安堵していた。
院長の脳移植も院長自身の論文と研究成果の賜物。
手術の腕前では勝るものの、その頭脳には及ばなかった。
そして彼は思った、この世界を我々が救ってみせる。
…やはり院長の脳を救ったのは正解だった。
あの青年には気の毒であったけれど。
脳の損傷は大したレベルではなかったのだが…。
院長を助ける為に犠牲になって貰ったのだから。
副院長は医院の裏の駐車場で車に乗り込んだ。
ふっ、と溜息を吐く。
途端に後部座席に人の気配を感じて振り向いた。
同時にサイレンサーによる小さな発砲音が車内にだけ響く。
ゲームの様な銃声。
彼は眉間に小さな穴を開けてフロントガラスに頭を打った。
スーツの二人組の一人が車を降りた。
直ぐに車は急発進していった。
副院長の亡骸を乗せたまま。
スーツの内側に銃を携えた男が医院に入っていった。
…私は、その一部始終を見ていた。
副院長に言い忘れた事を伝えに行こうとしたが故に。
そして恐怖よりも怒りの感情に支配されていた。
もしかしたら私もウイルスに支配されているのかも知れない。
怒りが増幅し過ぎて、もう殺意しか感じられなかった。
男は銃を所持しているが、こちら側に武器は無い。
住居スペースには刃物すら置いてはいなかった。
私は料理すら作った事が無かったからである。
取り敢えず手近な物を後ろ腰に隠して部屋を出た。
…後は男が私の現在の姿を知らない事を祈るのみ。
エレベーターを先回りして階段で最上階へ。
男がエレベーターで上がってくるのが表示されている。
そして到着してドアが開かれた。
私はドア前で鉢合わせした演技をしたのである。
「あっ、すみません此処は研究室で一般の方は…。」
「いいから開けろ。」
男はサイレンサーを私に突き付けて静かに言った。
どうやら私が院長本人だという事は知らない様だ。
それは国家機密だから、この男は国家からではない。
データのハッカーだろうか?
こいつらは世界を救おうという発想を持っていない。
私は研究施設のドアのロックを解除した。
男は私に銃口を向けたまま先を促した。
ウイルス対策の遠紫外線ルームと減圧ルームを続けて通る。
そして私の肉体が眠るポッドへと案内した。
男は眠っている院長…つまり私の顔を確認して言った。
「これを開けろ。」
「感染しているので、それは出来ません。」
「感染してる…だと?」
「ええ。」
「それなら、このままで生命維持装置を外せ。」
「…しかし、それでは。」
「やれ。」
男は再び銃を後頭部に突き付けて言った。
私は私自身の肉体の生命維持装置を停止するフリをした。
男は院長の状態を確認し始める。
私は後ろの腰から武器を取り、そして強く握り締めた。
まだ荒く呼吸を続ける院長を見て男が振り返って言う。
「ワクチンは何処に在るんだ?
データと一緒に渡して貰おうか。」
私は、その瞬間に男の眉間を狙って武器を振り下ろした。
急所を外れても視力が奪えると咄嗟に判断した上での行動である。
渾身の一撃で、それは見事に眉間に刺さった。
「ぐぐうっ…!」
パシュッ。
男はよろめきながら私に向けて発砲した。
だが弾は遠く逸れる。
銃弾は何かに当たって鈍く割れる様な音が響いた。
男は倒れて痙攣を始め、やがて動かなくなった。
額からは大量の血液が流れ出ていく。
こいつらは一体何者なんだ、こんな非常事態に。
人類の為に完成させたワクチンを奪おうなんて。
私は生命維持装置を通常に戻した。
そしてワクチンのデータを抜き取り始める。
その時に警告音が鳴り始めた。
別の警報が、それに続いて聴こえ始める。
私はポッドの私自身の肉体を見た。
シールドの一部分が小さくヒビ割れている。
流れ弾が当たってしまったのだろう。
そこからウイルスが流出しているのかも知れなかった。
私はワクチンを接種しているから不安は無い。
これで、この男の死体は感染で亡くなった事で処理されるだろう。
この研究施設へは警察も簡単には立ち入れられないし。
私は男の眉間から武器を引き抜いた。
それは血で紅く染まったガラス製の写真立てである。
妻を死に追いやった家庭教師を殴り倒した物。
二度も生命の危険から救ってくれた写真立て。
それは最愛の妻と娘からの誕生日プレゼントであった。
飾られている写真には親子三人が写されている。
かつての私と眩しい笑顔の妻と自慢の娘。
写真の中の三人は変わる事無く幸福そのものである。
永遠に。
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