[2]化身

1/1
前へ
/1ページ
次へ

[2]化身

 それは突然、全世界に対して始まりを告げた。  終わりの始まりを、である。  その未知のウイルスは年末を終末へと変えようとしていた。  脳に作用し、まるで同種族を自滅へと追い込む様に導く。  自滅への行進を始めてしまうのであった。  パンデミック。  地球は世界という名の下に分断されていった。  グローバリズムが跡形も無く消し飛んでしまったのである。  地球規模のサプライチェーンは動きを停止してしまった。  断絶。  あらゆる生産行程が一時的にせよストップしてしまった。  世界が一斉に自国の為のパイの分捕り合いを始める。  そして、その再開の時期が全く計算出来ない状態が続く。  自国ファースト。  ウイルスによる感染は拡大を続けていた。  死者の増大も止まる気配が無い。  全世界でワクチンの開発が急がれていく。  切り札はジョーカー。  各国がパンデミック後の世界の覇権の取り合いを始めた。  政治的な経済コントロールが先進国で急増する。  どさくさに紛れて国民は二重に苦しめられた。  火事場泥棒。  ウイルスは神の脳にも作用してしまったのだろうか?  それとも悪魔との覇権争いに苦慮しているのか…。  ウイルスが悪魔の力を増幅させているのは間違い無い。  人類の未来の舵を取り合っている。  …私は脳神経科の医院を経営している。  愛する妻には目前で先立たれてしまった。  その時に妻を死に追いやった男との格闘の末、肉体を失くす。  だが私の脳は一命を取り留めた。  そして、その脳は損傷した男の身体に移植されたのである。  妻の仇の肉体に、この私の意識は存在する事になった。  娘は私の新しい姿を容認出来ず、いつしか離れて暮らす様になった。  それは私に取っては死よりも辛い結果となる。  娘は、この自分の家庭教師の肉体に恋していた。  だが意識は自分の父親である。  恋愛感情を抱き続けられる訳も無い。  別離。  私の感情は妻と共に死んでしまった。  なので新たな自分自身に対する複雑な思いも消えた。  残ったのは最愛の妻を死に追いやった男の肉体だけ。  虚無。  医院の運営は副院長に任せて経営の裏方として研究所に籠る日々。  想像すら出来なかった若い肉体を手に入れたが所詮は容器。  ただ視力が回復しているので研究資料は読み易くなった。  研究対象はウイルスである。  憎悪の対象が亡くなって、その矛先が向いただけの事だが。  私には国賓レベルの警護がなされていた。  …私自身が、この肉体が実は国家機密であるという事らしい。  確かに人体間脳移植は国が認可していない。  緊急事態で副院長が秘密裏に副院長が指示し執刀したのだ。  そして唯一の成功例。  しかも手術スタッフの間では、まだ男は脳死していなかったとの噂。  だとすれば男は生存していたにも関わらず脳を…。  それが事実ならば法的措置を取られるレベルの事である。  自分の意思とは無関係とはいえ、この私も只では済まないだろう。  その不安から解消されたいが為にも研究に没頭していく。  研究すればする程に、このウイルスのプログラミングは凄い。  ある種類の感情が、いとも容易く理性の制限を超えてしまうのだ。  簡単に言えば本能を増幅させてしまうのである。  ウイルスに支配された個体が自己コントロール不能に陥る。  肉体的ではなく精神的な強毒性。  もし人類が他者への慈愛に溢れていれば、より幸福感が増すのだろう。  まるで天国の様な世界が出現する筈である。  だが人間は負の感情に支配され易い生き物だ。  つまりは闘争の発火点にしかなりえない、と言う事になる。  ウイルスによって人間の本質が露になった。  地球規模で建前が崩壊していった、では本音とは…?  これから全世界で起こる事は人類が自ら望んだ事である。  幾つかの先進国で都市封鎖を巡り政府と国民が衝突している。  同じ国民が互いを憎み合って争っていた。  彼等は実際にはウイルスに感染してはいないのだろう。  だが感染する以上に影響を受けてしまっているのは間違い無い。  ウイルスは労せずに脅威を拡大させてきた。  人間を知り尽くして、その弱点を突いている。  それこそ悪魔そのものではないのか?  領空海の侵犯を繰り返す国家も増えてきている。  ウイルスへの国民の不安感情を逸らす為でもあるのだろう。  このパンデミックを政治的な道具として利用しているのだ。  彼等は自分の立場の保身の為に、その目が眩んでいる。  …そんなキャスターの発言を私は聞き流していた。  独りで暮らす様になってから私はニュースしか見ていない。  それとウイルスに関する情報番組だけである。  ウイルスは作用するだけ、この状態を選択しているのは人類自身。  その事実に気付いた。  何故なら私自身にも説明出来ないぐらいウイルスが憎いからだ。  今回の騒動で妻を失くしたのも同然だからである。  それと同時に娘も離れて行ってしまった。  最愛の全喪失。  娘には全て説明した。  現在の私の容器、元は娘の家庭教師の肉体である。  妻との不貞関係は伏せておいた、だから知らない筈だ。  だが、どうしても受け入れられない彼女は私から去った。  責任というものが存在するならば、その全てはウイルスに在る。  娘には理解出来なかった。  母が転落死し、そして父と先生が一緒に事故に合ったなんて。  挙句に父と先生の肉体が入れ替わるだなんて…。  彼女は密かに家庭教師を慕っていたのだ。  理解しろという方が無理な話である。  彼女は母親と無意識の内に家庭教師の感情を取り合っていた。  その挙句に父親に姿形を乗っ取られた訳である。  当然その事実は彼女のキャパシティを軽く超えた。  彼女は、それを全て拒否してしまったのである。  そして彼女は父の許を去っていった。  母親の保険金だけで暮らせるのだから無理もない。  その彼女にも監視の目は光らせられた。  国家機密を、そうとは知らずに知っているのだから。  ニュースでは新興国の状況を報道していた。  次の話題は各国国境付近の不安定な政情についてである。  最早ウイルスは感染拡大なくして人類に勝利しようとしていた。  完全試合。  私はロックを解除して家の中に入った。  私の医院の上部階は私邸と研究施設である。  特に最上階の研究施設には数名しか入れない。  その奥に私の肉体は眠っていた。  副院長が執刀した時に、その肉体に男の脳を移植しておいたのだ。  男は感染し昏睡状態であると家族に説明された。  そして当医院で治療中である、と。  私の肉体と男の脳は一緒に眠ったままである。  決して目覚める事は無いであろう。  私は最愛の妻を奪った男を利用しようとしていた。  眠っている肉体をウイルスに感染させる。  そして既に完成させていたワクチンの臨床実験を行っていた。  サンプルは一体だけであるが、その結果は驚くべき程である。  ウイルスの増殖を抑え込んで弱体化させる事に成功していた。  自分の肉体だから実験に使っても罪の意識は低い。  「罪と罰」。  ワクチンは残された娘の為にと思っていた。  だが残されてしまったのは自分自身の方である。  私は自分自身で臨床実験を行っているのだ。  ニュースでは各国による経済的な駆け引きを報道していた。  どんどん少なくなっていくパイを奪い合う姿勢である。  皆でパイを作ろうという発想は無いらしい。  今ワクチンの開発に成功すれば世界の覇権に手を掛けられる。  と同時に巨額の利益を生み出す事が可能にも。  当然、情報は全て国家機密レベルとなる。  成功例なら尚更に。  これが映画ならば各国が協力して団結する展開ではないだろうか。  ハリウッドなら超大作になるのだろう。  そんな事を考えていたら副院長が研究室へと入ってきた。 「…どうですか院長、経過観察の結果は?」 「データを見てくれ、この通り完全に封じ込められている。」 「制圧ですか…?」 「まだサンプルは一体だけだが、その通りだ。」 「…凄い。」 「これで日本が世界を救う事が出来るな。」 「早速、政府に報告しましょう。」 「もうデータを送っておいたよ。」 「善は急げ、ですね。」 「ああ、これで世界は救われる。」  ニュースでは各国のワクチンの開発状況についての報道。  ワクチンが次の世界の切り札になるのは間違い無い。  そして同時に自国を地球のファーストへ導きたい。  そんな思惑が見え隠れする動向ばかりであった。  副院長は、その院長の報告を受けて安堵していた。  院長の脳移植も院長自身の論文と研究成果の賜物。  手術の腕前では勝るものの、その頭脳には及ばなかった。  そして彼は思った、この世界を我々が救ってみせる。  …やはり院長の脳を救ったのは正解だった。  あの青年には気の毒であったけれど。  脳の損傷は大したレベルではなかったのだが…。  院長を助ける為に犠牲になって貰ったのだから。  副院長は医院の裏の駐車場で車に乗り込んだ。  ふっ、と溜息を吐く。  途端に後部座席に人の気配を感じて振り向いた。  同時にサイレンサーによる小さな発砲音が車内にだけ響く。  ゲームの様な銃声。  彼は眉間に小さな穴を開けてフロントガラスに頭を打った。  スーツの二人組の一人が車を降りた。  直ぐに車は急発進していった。  副院長の亡骸を乗せたまま。  スーツの内側に銃を携えた男が医院に入っていった。  …私は、その一部始終を見ていた。  副院長に言い忘れた事を伝えに行こうとしたが故に。  そして恐怖よりも怒りの感情に支配されていた。  もしかしたら私もウイルスに支配されているのかも知れない。  怒りが増幅し過ぎて、もう殺意しか感じられなかった。  男は銃を所持しているが、こちら側に武器は無い。  住居スペースには刃物すら置いてはいなかった。  私は料理すら作った事が無かったからである。  取り敢えず手近な物を後ろ腰に隠して部屋を出た。  …後は男が私の現在の姿を知らない事を祈るのみ。  エレベーターを先回りして階段で最上階へ。  男がエレベーターで上がってくるのが表示されている。  そして到着してドアが開かれた。  私はドア前で鉢合わせした演技をしたのである。 「あっ、すみません此処は研究室で一般の方は…。」 「いいから開けろ。」  男はサイレンサーを私に突き付けて静かに言った。  どうやら私が院長本人だという事は知らない様だ。  それは国家機密だから、この男は国家からではない。  データのハッカーだろうか?  こいつらは世界を救おうという発想を持っていない。  私は研究施設のドアのロックを解除した。  男は私に銃口を向けたまま先を促した。  ウイルス対策の遠紫外線ルームと減圧ルームを続けて通る。  そして私の肉体が眠るポッドへと案内した。  男は眠っている院長…つまり私の顔を確認して言った。 「これを開けろ。」 「感染しているので、それは出来ません。」 「感染してる…だと?」 「ええ。」 「それなら、このままで生命維持装置を外せ。」 「…しかし、それでは。」 「やれ。」  男は再び銃を後頭部に突き付けて言った。  私は私自身の肉体の生命維持装置を停止するフリをした。  男は院長の状態を確認し始める。  私は後ろの腰から武器を取り、そして強く握り締めた。  まだ荒く呼吸を続ける院長を見て男が振り返って言う。 「ワクチンは何処に在るんだ?  データと一緒に渡して貰おうか。」  私は、その瞬間に男の眉間を狙って武器を振り下ろした。  急所を外れても視力が奪えると咄嗟に判断した上での行動である。  渾身の一撃で、それは見事に眉間に刺さった。 「ぐぐうっ…!」  パシュッ。  男はよろめきながら私に向けて発砲した。  だが弾は遠く逸れる。  銃弾は何かに当たって鈍く割れる様な音が響いた。  男は倒れて痙攣を始め、やがて動かなくなった。  額からは大量の血液が流れ出ていく。  こいつらは一体何者なんだ、こんな非常事態に。  人類の為に完成させたワクチンを奪おうなんて。  私は生命維持装置を通常に戻した。  そしてワクチンのデータを抜き取り始める。  その時に警告音が鳴り始めた。  別の警報が、それに続いて聴こえ始める。  私はポッドの私自身の肉体を見た。  シールドの一部分が小さくヒビ割れている。  流れ弾が当たってしまったのだろう。  そこからウイルスが流出しているのかも知れなかった。  私はワクチンを接種しているから不安は無い。  これで、この男の死体は感染で亡くなった事で処理されるだろう。  この研究施設へは警察も簡単には立ち入れられないし。  私は男の眉間から武器を引き抜いた。  それは血で紅く染まったガラス製の写真立てである。  妻を死に追いやった家庭教師を殴り倒した物。  二度も生命の危険から救ってくれた写真立て。  それは最愛の妻と娘からの誕生日プレゼントであった。  飾られている写真には親子三人が写されている。  かつての私と眩しい笑顔の妻と自慢の娘。  写真の中の三人は変わる事無く幸福そのものである。  永遠に。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加