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「……う」
耳に届いた苦しげなうめき声に、薄く目を開く。
一体どこから聞こえてきたのかと思ったが、自分の喉から発せられたものだと気付いた時、今まで寝ていた事をようやく察した。
起き上がろうとするが、全身がダルくて力が込められない。
頭と右肩がひどく痛い。それに、さっきから聞こえてくるこの水音は何だ?
ぐちゅり、ぐちゅ。やや粘着質な音に、獣のような荒い吐息が混じっている。
右肩にかかる生暖かい空気。もはや日常的に嗅いで慣れてしまった、生物が腐敗していく臭いが鼻腔をかすめる。嫌な予感がした。
「嘘、だろ……?」
そこには――組み敷いた姿勢で俺の肩に噛み付いている、ゾンビの姿があった。
厨房で格闘した奴だ。
あのあと抵抗を続けたのか、ナイフは離れた場所に取り残されている。どうやら戦いの間に意識が飛んで、前後の記憶が抜けてしまったらしい。
ようやく事態が把握できてくると、冷静になるどころか混乱が一気に押し寄せ、呼吸の仕方すらろくに分からなくなってきた。……手の震えが酷い。
「だ、誰かっ!」
渾身の力で叫んだものの、頭の片隅では、そう都合よく人が通りかかるなんてある訳がないと分かっていた。
ここに来るまでに見た、あの女性の遺体が脳裏をかすめる。
死の間際、彼女もこんな気持ちでいたのだろうか。
「グルルルッ」
すぐ耳元で唸り声が響く。
肉を噛み千切ろうとする力は凄まじく、枷が外れた力によって遠慮もなく食い込んでくる。食う者と、食われる者。その関係でしかないのだと、身に刻まれているようだった。
眼前にある顔は、元々同じ生き物だったと思えないほどに変容している。
眼窩からはみ出している眼球は機能しているのか怪しいほどせわしなく動き、ただれて皮膚が垂れ下がっている肌は、こちらの体温を吸い取るほどに冷たい。
――俺もすぐに、こうなってしまうのか。
そう思うと、本能的な恐怖で歯がカチカチと鳴った。
ウイルスが体内に侵入すると、体が徐々に崩れていく。
一部は作り変えられ、元の人格など木っ端みじんに破壊され。後に残るのは、新鮮な血肉を求めてさまよう化け物だけだ。
そこに人間らしさなど、欠片もない。
「はあっ、ハッ……ハ、ハァッ……!」
……嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ、嫌だ嫌だイヤだいやだ、絶対に嫌だッ!
こんな姿で生きていたくないッ!!
これまで見てきた色んな人の死にぎわが、見届けた母さんの最期が。逆流して熱くなった頭によぎり、震える手が首に伸びる。
指先に引っ掛かったチェーンをたぐると、襟もとからカプセル型のロケットペンダントが顔を出した。ひねると蓋部分が開き、透明なカプセル剤が転がり出てくる。
中に入っている白い粉末は、脳の組織を破壊し、血流を停止させて死に至らしめる劇薬。いわゆる、自決のための薬だ。
「あの世でも恨んでやるからな、クソ親父……ッ!」
恨み言を吐き捨て、摘んだ薬をおもむろに口内へと放り込む。
完全に呑み込んでから、俺は役目を果たした腕を投げ出して、仰向けのままゆっくりと目をつむった。
ふいに零れた温かいものが、頬を伝っていく。
噛まれている痛みのせいか、悔しさからか。自分でも判断が付かない。
あるいは、その両方なのかもしれなかった。
間近で続いていた水音が途切れがちになり、やがて何も聴こえなくなる。
無音の中で、今度は感覚が薄れてきた。噛まれている痛みも感触も、上下すら分からなくなり、思考の鈍りがいよいよ酷くなってくる。
「かみ、さ、ま――……」
漠然とした不安のせいか、そんならしくない言葉が漏れ出た。
神なんて信じていない。救いを説いていた奴は、みんな呆気なくゾンビにされるか死んでいったからだ。
信心深い奴がそうなんだから、俺なんかの願いは絶対に聞き入れて貰えないだろう。
……それでも。
最期ぐらいは、胸の内に抱いていた望みを誰かに聞いて欲しかった。
来世はどうか、ゾンビや戦いなんて無縁な人生を送らせて下さい。
当たり前にあった、平和な世界に生まれさせて下さい。
そのため、なら……なん、でも…………。
死の間際の願い事も、薬の作用でおぼろげになっていく。
いま自分が何を考えているのかさえ、定かでなかった。
『――うん。良い覚悟だ』
だから聞こえてきた声にも、すぐに気付けなかったのだろう。
それが少女のもので、自分に対しての言葉だとやっと理解した時には、この状況がおかしいと薄々感じ取っていた。
すでに五感の機能は破壊され、目も見えないし、音も拾えていない。だというのに、何故かこの声だけは明瞭に聞こえている。
『その意思があるなら、君に託しても大丈夫そうだ』
……たくす?
たくすって、なにを?
『使命を。君にしか出来ないんだ』
返答があったのに驚いて、思わず目を見開いた。
二度と動かないはずのまぶたが持ち上がり、鮮明な景色が映る。
そこには、満天の星空が広がっていて。
「はじめまして。ようこそ、僕ら『管理者』が住まう場所へ。御崎成哉くん」
頭上に浮く真っ白な少女が、ニヤついた笑みでこちらを見下ろしていた。
「………………はっ?」
いきなりシーンが切り替わった感覚に、呆然と辺りを見回す。
真っ暗な星空は果てなく広がっていて、壁どころか床すら見当たらない。それなのに、足場もないはずの場所に俺は立ち尽くしていた。
しばらく状況が理解できずにいたが、ゆっくりと直前の記憶が戻ってくる。体を探ってみると、あれだけえぐれていた肩は綺麗に元通りになっていた。
血まみれだったTシャツもズボンも、スニーカーさえ、なぜか新品同然になっている。
「なんで……?」
「僕がそうしたからだよ」
わけの分からない状況に動揺している俺を、頭上に浮いている少女は実に愉しげに観察していた。
十歳かそこらの見た目だが、そぐわないほどの神秘的な美しさを感じる。絹糸のごとき白髪、透き通った薄い水色の瞳。けぶるような睫毛。白磁の肌も相まって、生きた人形みたいだ。
白いワンピースの裾をなびかせながら降下した少女は、眼前にふわりと降り立った。あらためて俺を見据えながら、大人びた仕草で己の胸元へと手を置く。
「まずは自己紹介からかな? 僕はククリア。この場所で世界を管理している、高次元的存在。君が願った『神様』だよ」
「かみさま?」
そう言われてまじまじと見るが、お世辞にもそれらしさは感じられない。妖精と言われた方がよっぽど納得できる見た目だ。
ただこれまでの状況や会話から、少女――ククリアが、人間とはどこかしら違う存在なのだと分かった。
「そういえば、使命がどうとか聞こえたような……」
「そう。死の間際に強く願った魂にはね、その望みを叶えるための試練、一回きりのチャンスが与えられるんだ。それが『前世の記憶を保持した転生』。その代わり、僕からのお願いを聞いて貰うって形かな」
人差し指をピンと立て、少しばかり偉そうに胸を張るククリア。
願いを自力で叶えさせるとは……神様という割に、ずいぶんとケチなんだな。
「あ、いま失礼なこと考えたでしょ。そういうの分かるんだからね?」
下から覗き込むようにして視線を合わせてきた彼女は、少し拗ねたように唇を尖らせた。
「神様といっても正確には『管理者』という存在であって、君たちの想像するところの神様では無いからね?」
「かんりしゃ?」
「数多ある世界の管理者だ。僕の担当は地球と、それからヴァルアネスという世界。この二つに魂を振り分け、管理するのが仕事だ」
だけど、とククリアは少し表情を曇らせる。
「地球があんな状態になっているから、こちらで待機させている魂がずいぶんと多くなっていてね。おまけにヴァルアネスの方にも、ちょっと困った事が起きていて」
「はあ……」
〝困った事〟というフレーズに、猛烈に嫌な予感がした。
相手は神様で、ここは天国だ。つまりはそれだけのスケールの話になる。
簡単に済ませられるような、お手軽なものではないだろう。
「それで、困った事っていうのは?」
諸々を呑み込んで先をうながす。
ククリアは待ってましたと言わんばかりに答えた。
「地球のゾンビが、ヴァルアネスに召喚されてしまったんだ」
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