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「あれです」そう言いつつ、老人は指を伸ばして、どこかみすぼらしい感じの丘を示しました。 「最後にあれを、二人は取り合ったのです」  晩秋の、午後も遅い時刻のことです。山深いこの地では、まだ手つかずの自然が存分に残されていて、折からの紅葉に極彩色に染め上げられた周囲の山々は息を呑むほどの美しさを湛えています。  けれども、その丘だけは例外でした。  荒れた黒土ばかりがむき出しで、てっぺんにポツンと生えた一本を除いては樹木の影さえ見当たらない。先ほどみすぼらしい感じを、わたしが受けたのはそのせいなのでしょう。 「取り合ったというのは、あの丘をでしょうか?」さて、この丘に取り合うほどの価値があるのだろうか? そんなことを思いながら、わたしは尋ねました。 「それともてっぺんの木をですか?」 「あの丘は黒山と言いまして」老人の返事はどこかははぐらかすようです。「てっぺんのあれは柿の木なのですよ」 「へええ……」 「ええ。二人が取り合ったのは、実は黒山でも柿の木でもなく――その柿の木の、実なのです」 「柿の実? 柿の実ですか……」 「ええ」  そう言ってうなずいたとき、老人の口元からは、それまでの柔和な笑みが消えていました。  T・・はR県の県庁所在地から車で3時間ほどの、奥深い山中にあります。わたしがこの地に長逗留することになった理由などは、お話の本筋とは全く関係がありませんので割愛するといたしましょう。  その滞在三日目のこと、長い午睡から目覚めたわたしは晴れ渡った秋空に誘われるようにして、軒先からそのまま散策へと出かけたのです。  そうして村はずれの三叉路にたどり着き、益体もなく道祖神の頭に留まったトンボなど眺めていたときに、道を向こうからやってくる人影がありました。まだ紹介は受けていませんでしたが、逗留先の主人の知り合いらしい、その老人の顔を、わたしは覚えていました。  わたしの会釈に立ち止まって挨拶を返してくれた老人は、つられたのか、トンボの飛ぶ秋空を見上げて、慰め顔になりました。 「あなたのような都会暮らしのお若い方にとっては、こんな何もない山里の暮らしはさぞご退屈でしょう」  いいえ、とわたしは答えました。 「職業柄もありますが、わたしがいちばん愛してやまないものはお話です。この土地は一風変わった、他ではあまり聞かない故事や伝承が多い。因縁話のたぐいも豊富です。それを土地の方から直に訊かせていただく機会に恵まれているのですから、退屈している暇などありませんよ」  それを聞いて老人は、ふと考え込む目付きになりました。 「こんな年寄りのくせにと、お笑いになるかも知れませんが」しばしの黙考の末、老人は話し始めました。 「わたしはこの村の故事伝承などまるで知りません。けれども、わたしがまだ若かった頃のことですが、この村で互いに憎み合い、争いを続けた二人の若者がいました。唯々愚かなだけの彼らの諍いになど、あなたは興味はおありでしょうか?」  ぜひに、とわたしは答えました。 「憎み合う二人ですか。まるで横溝正史の『鬼火』ですね」 「柄にもなく探偵小説は好きなのですよ」思いつきを口にしただけの、私の言葉に老人は遠い目をしました。 「どのようなお話でしょう?」 「幼い頃から、理由もなくお互いを敵視する二人の男がいて、長じてともに画家になり、モデルとして知り合った、一人の運命の女(ファムファタル)を巡って、互いを陥れあう――そんなお話です」 「……『悪魔の手鞠唄』」 「はい?」同じ著者とは言え、まるで違う作品を持ち出されて、わたしは戸惑いました。 「あの本を読んでいて、わたしはその二人のことを思い出したのですよ」 「……」 「ハハハ。手鞠唄の歌詞に合わせて人殺しが起きたりしたわけではありませから、ご安心なさい」  そして老人はそのまま先に立つようして、歩き始めました。わたしも後を追います。そうして木立を抜け、視界が再び広がったとき、目の前にあったのが黒山だったのです。
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