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 新太が戻ってきたとき、なくせるだけの財産はすべてなくしてしまっていた父親は、こともあろうに俊一郎の父親の情けにすがるところまで落ちぶれていました。飲み代がなくなるとSの屋敷へ出かけていって、無様な幇間のまねごとを演じて、幾ばくかの小銭を恵んでもらうのです。  そこまでして得た金を借財に苦しむ家族の元に持ち帰ることも、父親はしませんでした。すべてを安い酒や女に費やすのです。そうして酔っ払って家に帰っては、些細なことで癇癪を起こし、無抵抗な妻や新太の妹たちをひたすらに殴るのです。  そして新太が帰って十日目の、強い雨の日。  その雨に増水した、村を流れる小川に落ちて、父親は溺れ死にました。  父親はいつものように泥酔していましたから、雨にぬかるんだ土手に足を取られての事故死。公式にはそんな風に父親の死は処理されました。  ほんとうは違うというような噂は、その頃から幾つもありました。  けれどもそれはそれだけです。新太の家のことなど、もはや誰にとってもどうでもよかったのです。  最後の破局はその数日後にやってきました。  二年前と同じ通りで、同じ登場人物によって、似たような一幕がもう一度演じられたのです。 「この村一うまい柿をおまえは食えないからな」  あの日とそっくり同じに、新太はこう言いました。違うことと言えば、後遺症で未だに引きずっている俊一郎の右脚を見て、にやりと笑ったくらいのものです。 「馬鹿を言え」俊一郎は嘲りました。「黒山もとっくに俺の家のものになってる。そんなこともわからなくなったのか」  知らいでか、と新太は応じました。 「親父は確かに黒山をおまえの親父に売った、けどな」と新太は力を込めました。 「売ったのは黒山だ。柿の実までは売ってない」 「おまえはバカか」 「柿の実までは売ってねえんだ」念仏を唱えるように、彼は繰り返します。 「だから、おまえに黒山の柿を食う権利はねえ」 「屁理屈をこねるな」 「屁理屈じゃねえ。もしあの柿に指一本でも触れたら、おまえの左脚もへし折ってやる」  新太としてはすごんだつもりです。けれど俊一郎は薄笑いを浮かべたままでした。そうして気がつけば、新太は数人の男たちに取り囲まれていました。  「どうせあのバカは、また俺の前に顔を出す」。そんなことを言って、俊一郎は取り巻きたちに、自分が囮になるから隠れて付いてこいと命じていたのです。  四人がかりで袋だたきにされ、新太は押さえ込まれました。かつての取り巻きだった男が、彼の頭を押さえつけ、顔を地面にこすりつけるようにしています。  その脇に俊一郎はしゃがみ込みました。 「バカなおまえにいいことを教えてやるよ」嘲るように俊一郎は言いました。 「おまえが牢屋にいた去年の秋にはなあ。あの柿の木はもう、俺のものだったんだよ。わかるか? この意味が」  のしかかっていた男をはね飛ばして、新太は血まみれの顔を上げました。  ものすごい笑みがその顔に浮かびます。 「うまかったろう」  俊一郎もまた、にたりと笑いました。  そのまま、糞のような柿だったと言えばよかったのです。  けれども、血まみれの新太の顔を見るうち、俊一郎の心に生まれて初めての疑問が浮かんだのです。  なぜ自分は、この男のことをこうまで憎まねばならないのだろう。  家のことがあるとはいえ、なぜ俺たちはここまで憎み合ったのだろう。  なぜ?  そう考えたとき、自分の心の奥底から、想像もしなかったような感情が飛び出してくるような脅えに取り憑かれて、俊一郎は慌てて立ち上がりました。  そうして思わずこう言ってしまったのです。 「ああ。うまかった」  その場を慌てて立ち去ってしまった俊一郎は、そう言われたときの新太の表情を見ていません。  確かめる機会もありませんでした。  新太とは二度と会うことがなかったのです。  黒山の柿の木の枝に、縊れて死んでいる新太が見つかったのは翌朝のことでしたから。 「わたしは思うのですよ」  庭を出たところで、別れの挨拶を交わした後のことです。ふと顔を上げて、老人は言うのでした。 「あのとき、糞のような味だったと言っておれば、新太は死ななかったのではないかと」 「自分が情けを掛けられたと新太は気づいたのでしょうか」考えながら、わたしは言いました。 「仇敵に同情されることは、彼にとって耐えきれない屈辱だったのかも知れません。あるいは、何もかもなくした新太は、そのことで憎しみの対象さえ、なくしてしまったのかも知れません」 「ああ、そうですね」 「俊一郎は」わたしは問うてみました。「新太に死なれて悲しかったのでしょうか?」 「どうなのでしょう」  そのつぶやきを最後に老人は離れへと戻って行きました。わずかに右脚を引きずって。  その後ろ姿を見送りながら、わたしは考えたのです。  愛と憎しみは真反対の極に立つ、水と油のような概念ではないのだと。  むしろそれはひどくよく似た、双子のような存在なのだと。
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