眠り猫の書記

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             眠り猫の書記 いつでも眠れた頃がなつかしい。  疲れに特性はなく、ただ押し寄せてくる疲労を受けきれずに眠り続けることができた。 無駄な知識をかさねれば体が披露の性質を見抜こうとして眠らせてくれない。 真面目な脂肪が不真面目な筋肉にとけ込もうとする。 几帳面な細胞が故意で傷つけられた箇所を数える。   ただ眠りたいだけなのに。耳が痒いので掻く。腰が痛いので背を伸ばす。 眠りにつけば忘れる事を全部やる。 余剰分が残っているのは脳だ。脳があれこれと考える。 夜中に、朝方にと考える。機会音だけの間に考えを巡らせる。   筆を走らせれば伝達神経に粘り気のある洗剤が流し込まれ、一網打尽に悪気を取りはらおうと躍起になる。 働くそいつらを脳に連れて来る伝達意識が脳みそで主張する。   眠れればいいのだ。 目を覚まし、再開すればいいことを薄皮の瞼が落ちかかっているのにも関わらずやらせるのだ。 明日にまわせ。 怒鳴ると刺激し、静かにすると心配する。耳が痒い。どことなく耳の周りが痒いのだ。抑えられない感情を、人目を気にせずに行えるのも特権。   黙らせるだけのあれがあれば、毎晩眠りの専門家でも雇う。 本能に従えば、異性がいい、五から十、歳が上で、普段は溌剌とし、眠らせる時には穏やかになれる性格が好ましい。 寝返りの習性を学び、最適な夢を生み出す構図を知り尽くした、そんな存在をそばに置きたい。 懐が暖かければという仮の話だが。   道楽と思われているのが悲しい。当初はそれでもよかった。 言わずと知れた唯一無二のいつでも眠れる猫で、産みの親、様様である。 眠っている間に、産みの親はもちろん、多くの世話人が死に、この街だって壊滅と再生を繰り返した。 それでも、まだ若くいつでも眠れ、眠たかった。 だが、このところ、次はなんだと気になり、静けさが気になって眠りが浅い。   眠り方が可愛いと評判である。 この形に落ち着くまで、納得がいくのにああでもないこうでもないと寝相を変えた。柔らかい座布団でも敷いてあげたいという猫好きのお声を頂くが、正直、ありがた迷惑なのである。 柔らかい布を何度も前足でかいて、お気に入りの形を作る犬猫の姿が惨めに見えてしかたがない。柔らかな面は形状を記憶しないという考えに現代に至っても及ばないとは、犬猫の進化論は途絶えたのだろう。 眠り続けていたことは無駄だと論ずるものにも反論できる。 我々猫は気ままな気質を変えていない。 だが、論ずるのは嫌いだ。   この間、目を覚ました時には男爵だの、伯爵だのと猫の地位が格上げされたと思ったが、十数年で再び猫は猫の地位に戻ったのは“うける”が流行り言葉だったからなのか。 どうやらそれも違うようだが、知ったことはない。 野良猫らが舞台の上で歌って踊っていたが、それはどうやらまだ続いているようだ。 気ままな猫に野良、野良じゃないの境界線を引くのは難しいが、世間一般的に逆境と思われる環境で、楽しく生きられているという噂を耳にするのは悪い気はしない。 どうやら伯爵猫と野良猫が協奏曲で乱舞する夢を見られそうだ。   老いなのだろうか。長い時間寝るよりも、一日に短い眠りを何度か繰り返す睡眠に変わってしまった。 眠ってばかりいても老いはやってくるのだな。役目を十分に理解しているつもりだから、目を閉じて、おきまりの寝相でいてやるが、案外起きている時にはつらい体勢で、早く前足をぐっと伸ばし、背中を反らし、尻尾を釣り上げ、大口開けて自慢のつぶらな眼から涙を流してあくびをしたい。 だが、今日に限って祝日で満員御礼、薄めを開けて長蛇の列を確認済み。 役目に従順では猫らしからぬ。 ええい、立ち上がってやろうか。いやっ、まだ脳が寝ているな。まだ眠れる。眠り猫の真髄をみせてやろう。   産みの親について尋ねられることが多々有る。 左人、左甚五郎殿のことである。猫であるが為に生みの親でありながら甚五郎殿をご主人として奉公した覚えがない。そんなことを気にするようなお方でないからこそ、没頭して物作りを続け、数々の逸話が語り継がれ愛される存在であったのだろう。 兄弟に三匹の猿がいるといえば驚かれる方もおるやしれん。滑稽な姿で目、耳、口を塞いで、こちらが和みを、あちらは笑いを提供している。 虎もいれば龍もいる。人類皆兄弟と平和を掲げ、常にどこかで戦争がありながらも叫んでいる。裏の雀がうるさかろうが眠れるこの時こそ安泰と思え。 よういどんで眠ればいい。時間の概念をとりはらい、鼾をかけば万物皆兄弟。   信心深い方々が減った。 生まれた頃を引き合いにするつもりはないが、変わった。心にやおろずの神を信じ、存在させるという生活形態は著しく変わった。 格別文句があるわけでは無いのだ。あの当時、家族に不幸が続いたという老婆、今思えば心労で老婆に見えただけで四十路あたりの女だった。 何にすがり、願おうと勝手だ。だが、眠る猫の下でぶつぶつと念仏を唱えるのは二度とごめんだ。 一度目には効果が無かったのだろう。数日後、自らに困難を課すことでご利益があると考え、あえて雨の日の夜を選んで凍える手を揉みながら同じ念仏を唱えたのだ。   救われない願いで手を合わせるものあれば、偶然の恵みを神のご加護と事後報告する行いも多々あった。 煮干しに、昆布なんては実質的過ぎ、花は今でも敬意を感ずる。 真珠に何を思えばよかったのだろうか、成金猫の印象がつく。 ふん、どうせなら重ねられた小判を枕にして寝てみたいものだ。   猫派、犬派など語る戯けが存在する。 犬は容易に躾ができて、主人に忠実で今日生活の便を助けてくれるという。 猫はどうにもそうもいかないようだ。主人という考えを持っているからすら明確ではない。世に生まれて以来、のほほんと寝ぼけているので詳しく知りはしないが、不思議と神に似た扱いを受けるのは、気まぐれで人に背を向ける猫である。 感情が欠落しているわけではない。むしろ、自らのことは自らする。我が身は我が身で磨く術も心得ていれば、当たり前に、より綺麗な飯を食う願望がある。犬食いと揶揄される事もない。 猫にとっては泣くは泣くであり、鳴くではない。寂しさ、悲しさや苦しさに泣いている。猫らしく生きるには入り組みすぎている時代なのだろうか。 臓器が自在に移動する事ができる猫には細道は細道ではないのである。   裏口で漆器が剥がれた皿で牛乳を飲む姿は古い。 茶店で運動用器具をくぐりながらお茶目な姿を披露すれば黄色い声援が飛び、俄然やる気を出す。落ちぶれたものだ。 お気軽、又はずぶ濡れが哀愁となるのが真骨頂。 流行に便乗、健康第一、管理下で明日も安泰とは情けなくて情けなくて。 と、言うて、嘆くのも老害、妬みに聞こえてしまうのだから文句は言うまい。できれば一度は拝見してみたい。こちとら年中、硬い板張りに、このご時世でも饅頭に線香ばかり。 贅沢を知れば抜け出せなくなるのが怖い、なんて阿呆な事をぬかす歳でもないわい。一度だけ覗いてみたいだけだ。   貴重に扱われるとむず痒くなる。 彫心鏤骨などした覚えはなく、徹頭徹尾、眠りに任せているだけなのに好事家によって長年愛されてきた。 物が溢れ、競争激化し続ける現世にも生存する事を甚だ恥ずかしく、申し訳なく思う。皆の物、日々の切磋琢磨ご苦労様である。   智辯な方々のご理解あって、永らくぐうたらしながらも咎められることなく今がある。 猫に憑依した偉人の書き手がいたのを知っている我輩は。 死んだように寝るというが、実際に死んでいくのは皆の方だ。 なるべく同じことで悩み、不満を漏らすのをやめようと心がけている。 次世代の見物人や読者に見合った寝言を言うかもしれない。 きっと泥棒猫も、盛りのついた猫もいない時代なのだろう。 嗚呼、虎の巻でも読み返すか。それとも五輪書がまだ新しいか? 以来、戦術書は重宝されていない。 必要のない時代なので眠り続けられる。 裏口から飛び出て、床下に隠れ、いざという時に相手を欺き、えいっと飛びかかる。 嗚呼、おもいきり遊んでみたい いつか来る日を夢見て再び眠ることにする。    
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