11人が本棚に入れています
本棚に追加
第55話「もうひとりの悪魔」
厚木さんに抱きつかれたことで俺の思考回路は完全に停止し、妙な声が出てしまう。
「ぇ?」
そんな彼女が耳元で囁いた。
「わたし土路クンには、すごい感謝している。けど、無理はしないで」
「う、うん」
一瞬の抱擁は解かれる。まるで夢から覚めたように、実は全ては俺自身の妄想だったのではないかと思えてきた。
「まりさぁ、土路のこと女の子と勘違いしてない?」
「あはは、ついついお礼の意味でハグしたくなっちゃって。だって、全然違和感ないんだもん」
厚木さんはいつもと変わりなく、そう笑顔を振りまく。
「あー、厚木せんぱいズルいです。わたしも抱擁を」
と、突進してくる黒金の頭を両手でがしっと掴み、それを止めた。なんか、彼女への反応は脊髄反射的になってるな。
「いろいろと収拾がつかなくなるから、落ち着けって」
「せんぱぁい、女の子はもっと優しく扱って下さいよぉ」
「おお、物扱いでいいんだな。割れ物注意的な扱いで良いか?」
「せんぱい、それハラスメントですよ。物扱いするなんて、特定団体が黙ってませんよ。ま、あたしはそれでもいいですけど」
「いいんだ」
乾いた笑いを浮かべる。そのニヒルな笑いは同時に自分にも向けられた。
黒金はなりふり構わずに俺にアタックしてくるけど、対して俺は厚木さんに想いすら伝えてない。
事情が事情とはいえ、情けない。
でもさ、俺、頑張ったよ。そして頑張った結果、厚木さんのハグをいただいた。これ以上にない至福の時ではないか。
自分の情けなさを誤魔化すために、そんなことを考えてしまう。
そのあとは、皆で部室へ戻ってメイクを落として、無事に俺は男の子へと帰還した。うん、帰ってこれたよ。
厚木さんに抱擁してもらえるなら、女装したままでもいいなんて、一瞬でも思ってしまったからな。
このまま性転換したら、厚木さんと付き合えるかもしれない。なんて、浅はかな考えも検討したのは……そう、気の迷いだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。これでストーカーの件は完全に解決した。それはラプラスのお墨付きをもらっている。
目先に迫った緊急事態の回避は完了。とはいえ、もう厚木さんの自殺まで時間はない。
夏休み中に蹴りをつけないと、俺は一生後悔することになるだろう。
**
テスト休みが終わると、テスト返却と学年順位の発表があった。
順位は案山が返り咲きの1位。2位が厚木さんで、3位が俺といういつもの面子だ。
ちなみに高酉は100以下なので順位表には載っていない。志士坂は俺たちに勉強を教えてもらったのが良かったのか、24位という自己更新記録をだしたという。
黒金は1年では67位という微妙な順位だが、中間テストでは100位以下だったので大健闘ではあるだろう。
返却期間は部活を開いて、くだらない創作談義に花を咲かせていた。怖いくらいに穏やかに日常は流れていく。
ただ、ストーカー騒ぎ以降、厚木さんの態度が少しおかしいような気がした。
具体的にどうこうというわけではないが、彼女の仕草や話し方に違和感を抱くようになっていったのだ。
あれから何度もラプラスに未来の演算を頼んでいる。しかし、どの案も厚木さんの自殺フラグを破壊するに至らない。
時間が無くなってきた――。
俺の心に焦りの感情が渦巻いてくる。夏休みに入って打つ手のないまま、だらだらと日々を過ごすというのは俺らしくもないだろう。
何か少しでも突破できる手掛かりがあればいいのだが……。
そういえばと、前にもらった名刺を思い出す。。
アリスと名乗る大学生のお姉さん。
『あなたの悩みをなんでも聞きます』と書いてあったはず。
「あった!」
名刺を裏返し、二次元バーコードをスマホで読み取ると、とあるサイトへと飛ばされる。
そこには真っ黒なバックグラウンドに赤い文字でこう書かれてあった。
【stray sheep】
なるほど、悩み事を相談しろってことだな。
その文字をタップすると入力フォームが表示される。
項目は次のようになっていた。
・名前【仮名でもかまいません】
・相談内容【なるべく詳しく書いてください】
そこで俺は考える。馬鹿正直に厚木さんの自殺フラグを書き込んで信じてくれるだろうか?
いや、未来予知の件はどう考えても作り話として笑われるだけだ。ならば、それを逆に利用すればいい。
『自分は小説を書いていて、今後の展開に行き詰まっています』
こんな書き出しだ。あとは、どんなに非現実的な内容でも不審がられることはない。だって、物語の設定なんだから。
それに対して相手がどう答えるかは未知数である。名前は空欄で無記名なのだから気を遣う必要はないだろう。
小説のアドバイスなど、できないと言われるかもしれない。が、それならばそれで構わない。今は可能性が少しでもあるものを利用する段階だ。ダメならばすぐに別のやり方を考えれば良い。
俺は厚木さんのこと、高酉のこと、そして俺のことを、物語の中のキャラクターのように書き、どう物語を進めればハッピーエンドになるだろうかという相談を書き込んだ。
「送信っと」
ボタンをタップすると深いため息を吐く。これですべてが解決するわけではない。あくまでヒントを得るためのダメ元の行動だ。あまり期待してはいけない。
なんだか、考え疲れてベッドで横になる。ふいに睡魔が襲ってきて、目蓋を閉じると意識は心地良く遠のいていった。
**
ふいにスマホの着信音が鳴り、強制的に目を覚まされる。
「?」
表示されるのは知らない電話番号。おそるおそる、それに出る。
「キミのメッセージは受け取ったよ。女装少年」
スピーカーからは女性の声。これは、ショッピングモールで出会った有里朱という人の声だろう。
「どうして俺の電話番号を知っているんですか?」
「もう一人のアリスちゃんから聞いたのよ」
高酉か。
「……ったくあいつ、勝手に。それよりも、メッセージって、あのサイトのフォームですよね? 俺、SNSでメッセージ送ってないし」
「そうよ」
「無記名なのに、どうして俺ってわかったんですか?」
「わたしのあげた名刺はそれぞれ違うバーコードが印刷してあるの。だから、あのサイトのどこにアクセスしたかで誰だかがわかってしまうのよ」
ああ、なるほど。俺も迂闊ではあったな。
「そんなトラップがあったとは」
「でも、名前を出しての相談だと、あんまり深いところまで書き込めないでしょ?」
言われてみれば、たしかに……。
「……まあ、そうですね」
「それにキミの場合は、直接話した方がいいかなと思って電話したの。明日ヒマ?」
「まあ、放課後なら暇といえば暇ですけど」
「じゃあ、夕方に会おうっか、女装少年」
「あ、あの有里朱さん、その女装少年という呼び方はやめてもらえます? あれは事情があってあの格好だったんですから」
ストーカーの件は解決したので話す必要はないだろう。とはいえ、女装が趣味だと誤解されるのも、なんだかなぁ……。
「そういえばわたし、キミの名前聞いてなかったね」
「土路将です」
「どういう字を書くの?」
いちいち説明が必要なのが少し面倒だった。とはいえ、己の姓が全国的に珍しいという自覚はある。
「土曜日の土のに、道路の路でつちみちです。下は将軍の将でしょうです」
「なるほど、じゃあ、キミはドロシーね」
俺は思わず、聞き返す。
「は?」
「土と路と将の最初の文字でドロシ。あと、わたし、最後に伸ばすのが好きだから」
メルヘンチックというよりはだいぶ、奇抜な名付け方であろう。そもそもドロシーとは主に女性の名だ。まあ、俺の顔は他人よりも少し中性的だから仕方ないが。
「はい、まあいいです。えーとこちらはどう呼べばいいでしょう。俺、下の名前が有里朱さんってのしか知りませんけど」
「いいわよ。有里朱で」
彼女とは明日の17時に会うことになった。ショッピングモールで会ったときの、底知れぬ不気味さは未だにある。ゆえに少し緊張するが、平静を装わなくてはならない。
さて、鬼が出るか、悪魔が出るか。
神のみぞ知る俺の運命であった。
**
「今日はお姉さんの奢りだから、好きな物を注文するといいわ」
ここは有里朱さんの家の最寄り駅近くの喫茶店。彼女にとっては馴染みの店らしい。木造の古い感じの店内。チェーン店ではないので、勝手が少しわからないのが不安でもある。
「でも、俺の方が相談に乗ってもらうのに、有里朱さんに奢ってもらうのは悪い気がしますが」
「いいのいいの。最近、ちょっとした臨時収入が入ったし、あとはドロシーくんが奢られるときにどんな反応示すのか、何を注文するのか、お姉さんは気になるのよ」
そんな彼女に怖じ気づきながら、俺は一番安いブレンドコーヒーを注文する。彼女はそんな俺に笑っていた。「もっと高いの頼んでもいいのに」と。
だが、ここでうっかり厚意に甘えてしまっては変な印象を与えかねない。俺は笑顔で『おかまいなく』と返すに留める。
最初は雑談。相手の出方を見つつ観察。といっても、有里朱さんの方も俺と同じタイプらしく、俺はじっくりと観察されていた。
「さて、本題に入りましょうか。そう、キミの小説の話だったわね」
彼女はニヤリを笑う。
「ええ、そうです」
対して俺は、緊張してごくりと唾を呑む。
「キミはどんなハッピーエンドをお望み?」
どうやら物語の話ということで受け止めてもらえたようだ。
「そうですね。できれば主人公もヒロインもすべてが幸せになるような結末ですね」
「幸せ? 幸せってなんだろうね?」
「哲学的ですね」
「ごめんね。これじゃ相談にならないわね。そうね。あなたが求める幸せってなんなのかしら?」
そう聞かれて言葉に詰まる。幸せなんて人それぞれだし、俺の幸せと厚木さんの幸せがイコールで結ばれるわけがないことも理解していた。
ならば、ここは一定のラインを設けるべきである。
「それは……まあ、最低条件としてはヒロインの死を回避することですかね」
「うふふ、幸せについて考えることを保留にしたのね」
「……」
ぎくりとする。たしかにその通りだ。俺はまだ本当の幸せというものについて考えたことはなかった。
「まあ、いいわ。それが最重要だってことはわかったわ。そうね……そのためにも、ヒロインの死亡フラグをどう潰すかが問題なのよね」
「ええ、まあ」
「主人公はどれくらいヒロインのことが好きなのかしら?」
有里朱さんの瞳がまっすぐとこちらを見つめる。まるで、俺自身に問いかけられているかのように。まさか、バレてないよな?
「へ? ああ、えっと、そうですね。命を懸けられるくらいは」
「じゃあ、たとえ世界を敵に回しても構わないって感じなのね」
「そうですね」
その答えに、彼女は軽快な口調でこう告げる。
「なら簡単よ。あなたは……ううん、主人公はまだ周りに気を遣っているの。優しい自分を隠そうとして強気にふるまっている」
「どういうことですか?」
「利用しちゃえばいいのよ。周りにあるすべての駒を。すべては彼女とあなたのハッピーのために」
「……」
身震いする。
利用しちゃえばいいのよ――。
そんな事が簡単に言えてしまう有里朱さんの顔が一瞬、悪魔に見えた。
最初のコメントを投稿しよう!