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君が好きだと思ったから
「内田さん! 好きです。だから結婚しましょう」
「はい?」
たまに変な利用者さんに遭遇することはあるけれど。
この手のいたずらは司書歴10年目にして初めてのことだった。
お昼頃から降り出した雨はだんだん強くなっていて。
他には誰も利用者さんはいなかった。
どう見ても二十歳そこそこの彼は、そういえばここのところ毎日のように閉館時間ぎりぎりに通ってきていたなと今更ながらに気づく。
もしかしてストーカー⁉
一瞬頭をよぎったけれど、こんな若い子が私を本気で好きになるはずなんてないものね。
やっぱりいたずらだ。
「返却期限は2週間後の6月30日です」
営業スマイルを浮かべて本を差し出す。
「あ、はい。いや、そうじゃなくて」
「雨足が強いのでお気をつけて」
早く帰って。
そして本を濡らさないでね。
そう含ませてみたけれど、この若者には通じただろうか。
「あの」
通じなかったようだ。
「そろそろ閉館時間ですので」
こんなときに限って館長もパートさんも奥で事務作業をしている。
助け舟は期待できそうにない。
「いきなりこんなこと言ってもただの不審者ですよね」
そうですね。
心の中でそう答える。
「僕、田町五樹って言います。すぐそこのパン屋で働いてて。えぇと、もうちょっとで25歳になります」
社会人だったの? てっきり大学生かと。
聞き流そうとしていたのに思わず耳が反応してしまった。
あそこのパン屋さんなら、よくお昼にお世話になっている。
怪しさは拭えないけれど、少しだけこの青年に興味が出てきてしまった。
「さっきのは緊張しすぎて焦って言っちゃったんですけど、本気でそう思ってるんで。僕と付き合っていただけませんか?」
いやいやいや。
まだ学生ならね、いたずらで許されるかもしれないけれど。
いい大人がこういうことをやっちゃいけないと思うのよ。
「やっぱり突然こんなこと言っても信じてもらえませんよね……?」
「そうですね」
気の毒なほど、大きなため息を吐かれたけれども。
誰かにいきなり告白してもらえるような女じゃないことは、私自身が一番よく知っている。
小太りで、オシャレとは無縁で、眼鏡でもっさりしている奴なんて、男性からすれば魅力なんてないでしょう?
ましてや、こんな……田町君って言ったっけ?
今どきの小洒落た男の子が相手にするはずがないじゃない。
「一度、ゆっくり飯でも食べながら話せませんか?」
「すみません」
「どうしても?」
あぁ、もう。
そんなに可愛い顔で見ないで。
きっと、末っ子ね。
うちの弟と妹の顔が浮かぶ。
田町君も甘え方を知っている目をしている。
「罰ゲームか何かなんでしょう?」
「違いますよ! 僕は本気で……」
「どうかされましたかね?」
「館長……」
背後から聞こえてきたのんびりとした声にほっとする。
もう少し早く出てきてくれればよかったのに、と思わずにはいられないけれど。
田町君は気まずそうな表情を浮かべながら、私と館長の顔を見比べて。
「すみません、大きな声を出してしまいました」
「はい、気をつけてくださいね」
にこにこと柔和に微笑む館長だけれども、なぜだか妙に迫力があった。
有無を言わせない雰囲気とでも言えばいいだろうか。
図書館業務は世間で思われている以上に大変だ。
そんなところで長年働き続けてきた館長だからこそ醸し出せるものなのかもしれない。
田町君もさすがにいたたまれなくなったのか、
「また来ます」
とだけ言い残して足早に去っていってしまった。
一体、なんだったのだろう。
「雨、帰る頃にはましになってくれるといいんですけれどねぇ」
「そうですね」
「さぁ、そろそろ閉める準備をしましょうか」
「はい」
何も聞かれないことがありがたかった。
窓に打ち付ける雨の音が、一層気持ちを重くする。
人生で初めて告白されたのがいたずらだったなんて、悲しすぎるじゃない。
もう、あそこのパン屋には行けないな。
深いため息が零れた。
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