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武装局員
極東の島国「ヒノモト」の西カルミアでリンは今日も目を覚ました。
あの事件から、一週間が経った。
今でもリンの頭には空游艇での血しぶきが脳裏にシミのようにこびりついて離れなかったが、彼は心の“拠り所”のおかげで何とか精神崩壊を起こさずに済んでいた。
あの空游艇での事件から一週間が経った今日も、彼は心の“拠り所”のおかげでなんとか気分の良い朝を迎えた。
「…おはようございます、イヌーティル様…」
彼のような善良人は、毎朝、このように「イヌーティル」に祈りを捧げている。優しい気持ちで心を満たして、太陽に向かって手を合わせる。それが、彼の心の拠り所そのものであった。イヌーティルは、ヘッドチップ政策が始まってから急激に信仰されるようになったイヌーティル教の信仰対象である。とはいえ、人間がヘッドチップを着けるようになったのは今から五百年も前の話だった上に、その頃は大戦の影響で管理が極端に杜撰であったため、まともな文書も今はほとんど残っていないのだという。現在は、事実上地球で最も権力を持つTEAのUSA本部の歴史博物館に厳重に保管されているらしい。
そして、イヌーティル教はヘッドチップ装着者に唯一許された宗教となった。他の宗教を信仰してしまうと、統一されていたはずの心理管理が不完全な状態になってしまうため、信仰する宗教を一つに絞ったらしい。
そのため、彼のような善良な信仰者は、こうやって毎日「イヌーティル」に祈りを捧げるのだ。
「…仕事かぁ…」
リンは、そう言ってため息をついた。
結局休暇は無駄になったし、数日間に及ぶ事情聴取やTEA局員としての情報整理の事務により、彼は事件後の一週間を終えた。そして、今日から通常通りの勤務となる。
仕事は好きだが、疲れているのは好きではない。誰だってそうだが、働き過ぎるとついそんな事すら忘れてしまいそうになる。
「…今度はちゃんと休暇をもらおう…」
リンはそう言って、自宅のドアに鍵をかけて仕事場へと向かう。リンの自宅は、西カルミア街、第七番道路沿いのアパートにあった。TEA局員にのみ居住が許可されたこのアパートには、当然リン以外のTEA局員も住んでいるが、彼は他の局員とほとんどと言っていいほど交友関係を持っていないので、実際のところ彼にとってはただのアパートと何ら変わらなかった。
「おいおい、やけに暗い顔してるなぁ」
アパートを出て、しばらく歩いたところにある駅で、リンはとある大男に声をかけられた。
「…ヨークルさん…」
身長が百九十cm以上もある自分の知人など、彼しかしない。そう思ったリンは、何の迷いもなく、彼の名前を呼びながら振り返った。
「リン、今から仕事か?」
ボロボロの作業着を身にまとったヨークルは、今年で確かに二十五歳になるはずだ。リンよりも確かに年上であるはずなのに、その振る舞いは十代前半のテンションそのものであった。そんな底抜けに明るい笑顔に、リンはつい深いため息をついてしまう。
「……はい、しかも今日から所属先が変わるらしいです…」
「所属先が変わる?お前、研究部じゃなかったのか…?」
「この前の空游艇のハイジャック事件がありましたよね?」
「あぁ、そんなのあったな」
「僕もその中に居たんです」
「へぇ~っ!ちびったのか?」
「ちびってないです。捕まえますよ」
「ひぃ~、怖いねえ。んで、結局どこに所属することになったんだ?」
「武装局員の個別オペレーターです」
「武装局員の補助IA代理ってことかぁ。感慨深いぜぇ、あのリン坊が治安を守るなんてなぁ」
「それ、僕が士官学校卒業した時にも聞きましたよ」
ヨークルはリンのその言葉を聞いて、大きな笑い声を上げた。
「それじゃあ、行ってきますね」
「おぉ、頑張れよ」
リンは、そう言うと、ヨークルに手を振って再び歩き出した。
リンがヨークルに出会ったのは、まだ彼が幼少期の頃だったはずだ。その頃からリンの頭は周りの子ども達とは一回りも二回りも飛びぬけていて、同年代の友達が身体を動かして遊んでいる時も、リンは一人で図書室に籠って本を読み漁るのが日課だった。彼はそれに満足していたし、たとえ遊びに誘われても断っていただろう。そんな時に、カルミア役所の図書館でバイトをしていたヨークルに出会ったのだ。ヨークルは当時から、底抜けに明るくて周りの人間によく愛される人間だった。みんなに笑顔になってほしくて、みんなに幸せでいてほしい。そんな他人の事を一番に考えられる好青年だった彼が、いつも一人で本を読んでいるリンに声をかけるのは必然だったのかもしれない。
リンがTEA局員になるために士官学校に入ったのも、もともとはヨークルが勧めたのが発端だった。
「…ったく…」
ただの本の虫で終わるはずだったリンの隠れた才能をTEA局員として活かせるようになったのは、ヨークルのおかげだといっても過言ではない。そう考えると、リンはあまりヨークルを嫌いにはなれなかった。
ヨークルにとって、リンはただの年下の友達という認識かもしれないが、リンにとってヨークルは自分を支えてくれた兄のような存在だったのだ。
だから、たとえ自分がヨークルの夢の代理だとしても、あまり悪い気はしなかった。
ヨークルは体躯こそは、たとえTEA武装局員であっても身体能力テストで上位を狙えるのではないかと周りに思わせるほどであったが、残念なことに頭があまりにも悪すぎた。
彼も十五歳の時に士官学校への入学を試みて書類を士官学校に送っていた。しかし、学力テストをするまでもなく、ヘッドチップが読み取った彼の知能指数があまりにも低かったため、書類審査の段階でヨークルは士官学校の入学試験を落とされてしまっていた。それがあまりにも悔しくて、当時のバイト先の図書館で出会った少年のリンにその夢を託したのだ。
リンはその事実を、士官学校の入学が決まった日にヨークルの口から直接聞いていた。けれど、リンがヨークルを軽蔑する事はなく、むしろ自分を導いてくれた兄のような存在である彼の夢を、これから背負って行こうと覚悟が出来たくらいだった。
「どうせなら、その筋肉が欲しかったよ」
リンは、ふとそんな事を口にする。
いくら二年間に及ぶ士官学校の訓練で身体を鍛えたとはいえ、今でもヨークルの巨体に敵うとは思えなかった。
「……なに?アタシの話…?」
「違いま―――ッ!」
ふと後ろから聞こえた声に、リンは言葉を失ってしまうほど驚いた。聞き覚えのある彼女の声。
「お、良い驚き方ね。リンくん」
「……えぇっと…ティアさんですよね」
「そうよ、よく覚えてたわね」
リンの後ろに居たのは、空游艇ハイジャック事件で彼の隣に居た女性・ティアだった。正体は何やらTEA局の武装局員らしく、実質、あの場を死亡者なく解決できたのは彼女の狙撃のおかげだった。
「…まぁ……えっと、こんな街中で何の用ですか…?」
「何の用って…アタシがあなたのオペレート対象だからねぇ」
「…え…?」
「よろしくね~、リンくん」
ティアは、その黄金の髪をゆらゆらと風に靡かせて、そう言った。
「今度こそ、ちゃんと握手できるわね」
差し出された手。
細くて白くて、ピアノでも弾いていそうなほど長くて綺麗な指。まさかこの指があの場で躊躇なく人を殺したとは思えなかったけれど。この手の持ち主は、間違いなくダミーチップ装着者を何の躊躇もなく撃ち殺す人間であった。
リンは爆発しそうな心臓を必死に堪えて、彼女の手を握った。
「……はい…」
「あはは、緊張してるわね?」
「え、えぇ…」
「まぁ、これから相棒になるんだし、そんなに気張らなくてもいいわよ~」
ティアは笑った。
また金髪が揺れる。
やはり、その姿は何度見ても綺麗だった。
「どうせなら、このまま一緒に西カルミア支部まで向かいましょう」
「…え……」
「…ん?何か問題があったかしら…?」
「い、いえ…」
一度は動揺してしまったが、ティアの言っている事が本当なら、これからリンはティアと一緒に仕事をしていく事になる。
「…僕なんかが個別オペレーターでいいんですか?」
「えぇ、だってあなた、優秀なんでしょう?」
これからリンが就くことになる個別オペレーターというものは、おもに武装局員の戦闘のサポートをするために用意されたものであり、その仕事は様々で、時には侵入する建物を事前に調べ上げ、またある時は、その建物の防衛システムにハッキングして、より武装局員が行動しやすい状況を作り上げたりもする。
「…ゆ、…優秀なんですかね…?」
「えぇ、他の武装局員たちもあなたを相棒に欲しがっていたわ」
「そ、…そんなに…」
「あら、意外と自分に過小評価なのね。誇ってもいいのよ?なんと言っても、あなたは今日から、このアタシの相棒なんだからっ!」
「…そうですか…」
リンは、そう言うと、自信満々に胸を張るティアを後目に歩き出した。
「あら、冷たいわね~」
「…どうですかね」
空游艇での、あの冷徹そうな彼女とは打って変わって、今、リンの小柄な背中を追いかけている彼女はあまりにも子供のようだった。
「…リンくんは、今年で十七歳だったかしら…?」
「えぇ、そうです」
「…じゃあ、アタシと二十歳差ね」
「――え…」
リンは、そこで足を止めた。
動揺と困惑と、驚きで完全に身体が停止したのだ。
「…?…なによ」
「…いや、…かなり若そうに見えますね」
「あら~、惚れちゃった~?」
「相棒は辞退しますね」
「ちょ、ちょっと~、冗談よ~?」
リンはまた、歩き出した。
彼の目に映っていたティアは二十代前半の容姿だったけれど、実際の彼女は三十代後半。その美貌は、四十歳手前であっても、なお衰えていないというのだ。
ティアは冗談で「惚れちゃった?」と言っていたが、リンは実際にまんざらでもなかった。というより、出会って初めて彼女の目を見た瞬間から、彼の心はティアに奪われている。
リンはため息をつきながら、先を思いやられた。
何せ、彼はこの世に誕生して十七年間、一度も女性に恋なんてしたことがなかったからである。けれど、今自分の胸で躍っているこの感情が恋でなければ何なのだろう。そう思ってしまうほど、彼は彼女に夢中だった。
リンがそうやって生まれて初めて感じた恋という感情に困惑していると、いつの間にかTEA西カルミア支部に到着した。
ロビーに入って、受付へと向かう。もちろん、ティアはリンの後ろをついてきていた。
「アタシ、カルミアなんて初めて来たのよ」
「…え…?」
「特に、西カルミアなんて名前でしか知らなかったわ」
「……ティアさんはどこから来たんですか…?」
「ふふ、呼び捨てでいいわよ」
「ティアさんはどこから来たんですか?」
「無視っ!?しかもリピートっ!」
リンは立ち止まって、振り返る。
そこにはティアが当然のように彼の後ろにいて、突然立ち止まったリンに対して首を傾げていた。
「……僕は西カルミア出身です。ティアさんは…?」
リンは少し目を逸らしながら、彼女に訊いた。ティアは、にまぁっ、と笑顔を零しながら、無駄に妖艶な声で答えた。
「旧ニューヨークから来た、ティア、で、す…」
「……なんでそんな厭らしく言うんですか……――って、旧ニューヨークってことは、オルターヨーク出身ってことですか!?」
「えぇ、そうよ。……えっと、確かここはの旧カナガワだったかしら…?」
「……は、はい…」
「大変だったわ~、あなたをゲットするためにわざわざここまで来たんだから。ヒノモトまで、何kmあったと思ってるの」
「いや、別に頼んでませんし……もしかして、この一週間で、僕を相棒にする手続きをしたんですか…」
「えぇ、そうよ。アタシがいなければ、あなたは、きっとまだ研究部にいたはずだわ」
「え……えぇ……」
「アタシ、昔から自分の手に入れたいものは真っ先に手に入れる性分なの」
「……」
リンは拍子抜けしたように言葉を失う。 ニューヨークという都市は、度重なる大戦の末「オルターヨーク」という名前に変わってしまったという事は、リンも歴史の授業で習っていて、今でも鮮明に覚えている。
リンが生まれ育った、この「ヒノモト」という国も、大昔は「ニホン」という名前で成立しており、当時はカルミアなんて名前の都市はニホンにはなく、代わりにカナガワという名前の都市がここにはあったのだという。
そして、ヒノモトのカルミア出身のリンにとって、オルターヨークという都市は誰もが憧れる世界一の大都市だった。だから、今のリンには、そんなところから来たティアがより一層輝いて見えて仕方がなかった。
「…まさか、僕の話がそんなところまで知れ渡っているなんて…」
「驚いたかしら?」
「えぇ、……今すぐにでも穴に埋まりたいぐらいです」
「あはは、やっぱり謙虚ねぇ、あなたのそういう所、好きよ」
「――」
ティアの「好きよ」という言葉に、再びリンの思考は停止した。ティアは、目の前で完全に思考が停止したらしいリンを置いて、ロビーの奥が何やら騒がしいのに気が付いた。
「…あれは、武装局員かしら」
「…え…?」
ティアの言葉に正気を取り戻したリンは、彼女が気にした方向を見た。
ロビーの奥。受付の横。
そこには遺伝子コード認証によって通ることができるゲートがあった。この西カルミア支部で働いている全てのTEA局員は、毎朝このゲートを通って通勤している。
そして、そのゲートに並んでいるのは他でもない西カルミア支部所属の武装局員たちだった。合計五名の彼らは、研究室に引き籠っていたリンですら局内電光掲示板で何度も見た事のある特殊な武装をしていた。
「あれは……うちのエリートチームですね」
「……西カルミア支部のエリートたちか…」
エリートチームは、少数精鋭の特殊部隊として知られている。顔はフルフェイスでリンたちからは確認できないようになっており、身体はリンが制作した高硬度のボディーシールドによって包まれていた。顔を隠しているのは、匿名性を保つためなのだろう。武装局員には、主に二つ種類があって、エリートチームのようにチームに加入させられる者もいれば、一人で隠密行動を命ぜられる者もいる。ティアはおそらく前者なのだろう。リンはそう考えている。
「どうしたんだろう、何かあったんですかね……―――あれ?」
気が付けば、リンの横にはティアの姿はなく、エリートチームがゲートを通ろうとするのを塞ぐように彼女は立っていた。
「なんだこの女…」
エリートチームの筆頭がそう言う。おそらくリーダーなのだろう。
「アタシはティア。あなたはエリートチームのリーダーさん?」
「あぁ、そうだが。……お嬢さん、悪いが俺たちは今は忙しいんだ」
「そうらしいわね」
「……」
ティアは、リーダーとの沈黙を破るように、リンを指差した。
「研究部の少年じゃないか……そういえば、長官が今日から個別オペレーターに就くって言ってたな…」
「えぇ、その事なんだけど」
「なんだ」
「あなた達、今から任務に向かうんでしょ?」「…あぁ、その通りだ」
「アタシたちも連れて行きなさい」
「――はぁっ!?」
なんとか会話が聞こえたリンは、ロビーで驚きの叫びをあげる。そもそも、ずっと研究室に引き籠る生活を送っていたリンにとって、エリートチームは雲の上の存在に等しかった。そんな彼らに自分の存在を知られている事自体、リンには驚きだったし、何よりもティアの提案に驚愕の声を上げられずにはいられなかった。
そして、ティアとエリートチームのリーダーの間で、その場にいた誰もが息を呑むような緊張感が走っていた。もちろんリンも例外ではなかった。そんな中、フロントに居た感情を持たない業務用の受付アンドロイドがそんな二人の間に入ってきた。
「どうした」
リーダーがそう言う。
すると、受付アンドロイドの半透明のシリコンの口が動いた。
『オーズ長官から、連絡が入りました』
「……?…繋げてくれ」
『リーダー、追加事項だ』
「ど、どうされました」
受付アンドロイドの声は、模範的な女性声から、ドスの効いた低い男性声に変わる。
『もうすぐティアという名前の武装局員がやってくるはずだ。今回の任務は、その女性武装局員と一緒に行動してくれ』
「…なっ…」
『分かったな?』
「…は、はい。了解いたしました」
リーダーはいまいち納得できていない声で、そう答えた。すると、受付アンドロイドはフロントの奥の自分の持ち場に戻り、ゲートの前にはティアとリーダーだけが残った。
「…どう?長官さんはなんて言ってたかしら?」
「……邪魔はするなよ」
「えぇ、もちろん」
「詳しい話は現場に着いてから行う。せいぜいに死なないように気をつけろ」
「ふふ、ありがとう」
ティアはそう言うと、塞いでいた道を開けた。リーダーを筆頭にエリートチームたちはゲートを通って行く。これで、無事にゲートにエリートチームは「出撃中」と記録された。
五名全員がゲートを通るまで、ティアはずっとにこにこと笑顔を振りまいていた。そして、無事に全員がゲートを通ると、ティアは、ただロビーのど真ん中で立ち尽くしていたリンに跳ねるように近づいて来た。
「さぁ、行きましょう?」
「え……えぇ…?」
「アタシたちの初陣ね?」
「いや、…ふつう、個別オペレーターは現場には行かないと……」
「いいじゃない、いいじゃない。オルターヨークの個別オペレーターは、みんな現場近くでオペーレートしてたわよ」
「へ…」
「ほら、エリートさんたち、もう行っちゃうわ」
リンは、そうやってティアに腕を引っ張られて、通勤記録をゲートに更新することなく、エリートチームたちと一緒にTEA西カルミア支部をあとにすることになった。
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